第93話 仕事ありますか
三十九日目、午前九時十四分。
「仕事、ありますか」
五十代の男が聞いた。
森田ではなく、直人に。
直人は箱の横の紙から顔を上げた。
「仕事?」
「昨日、掃除しただろ」
「ああ」
「今日も何かあるならやる」
男は箱を見る。
残高は百九十円。
朝、誰かが百円を入れていた。
「金が欲しいってこと?」
直人が聞く。
男は少し迷った。
「まあ、そう」
◇
午前九時十九分。
「掃除は?」
直人が店内を見る。
床はきれいだった。
クルーが朝にモップをかけていた。
「もう終わってる」
「段ボールは?」
「昨日、全部畳んだ」
「荷物整理とか」
通路を見る。
荷物は壁際に寄っている。
「今は別に」
男が黙った。
直人も困った。
仕事がない。
それだけだった。
◇
午前九時二十六分。
高校生が言った。
「テーブル拭いてもらえば?」
直人がテーブルを見る。
「汚れてる?」
「いや」
「じゃあ何で拭くんだよ」
「仕事になるから」
言ってから、高校生が自分で止まった。
男も高校生を見る。
「……それ、意味ある?」
「ないかも」
◇
午前九時三十一分。
黒瀬が口を挟んだ。
「一回荷物全部出して、並べ直すとか」
由佳がすぐ言う。
「今ちゃんと並んでるよ」
「だから、もっときれいに」
「出したら邪魔になる」
「じゃあ椅子を拭く」
「昨日拭いた」
「窓」
「クルーがやってる」
候補を出すほど、不要な作業ばかり増えた。
◇
午前九時四十分。
男が言った。
「何でもいいんだけど」
その一言で、直人は少し嫌な感じがした。
何でもいい。
役に立つ必要がない。
必要なのは、仕事をしたという形だけ。
形があれば、箱から金を使う理由になる。
「それ、昨日の掃除と違わない?」
直人が聞いた。
「何が?」
「昨日は汚れてたから掃除したんだろ」
「そうだけど」
「今日は、金を使うために汚れてないところを掃除しようとしてる」
男は黙った。
◇
午前九時四十八分。
森田がやって来た。
「何の話?」
高校生が説明した。
森田は箱を見る。
「仕事したら使っていい、って決めたっけ」
「決めてない」
直人が答える。
「じゃあ、作らなくていいだろ」
男が言う。
「でも、何もしないで金だけ使うの嫌なんだよ」
森田は少し考えた。
「それは分かる」
「だったら」
「でも、いらない仕事を作るのは違う」
◇
午前十時二分。
由佳が言った。
「必要なことが出たら頼む、でいいんじゃない?」
「いつ出る?」
男が聞く。
「分からない」
「今日出なかったら?」
「今日はない」
「じゃあ今日は何もしない?」
由佳は頷いた。
「必要なら」
男は納得していない顔だった。
◇
午前十時十五分。
男は箱の前に座っていた。
昼食までにはまだ時間がある。
高校生がスマートフォンを充電している。
美咲の子どもは、ラッキーセットのおもちゃを床で転がしている。
森田は記録を見ている。
直人は何となく落ち着かなかった。
働ける人が何もしていない。
その姿を見ると、何か頼まなければいけない気がする。
でも、頼むものはない。
◇
午前十一時七分。
入口で紙袋が破れた。
客の荷物が床へ落ちる。
缶詰が二つ転がった。
男が真っ先に立った。
一つ拾う。
直人ももう一つ拾う。
「袋、ある?」
高校生が予備の袋を出した。
男が中身を移す。
三分もかからなかった。
客が頭を下げる。
「助かった」
男も頷く。
それで終わった。
◇
午前十一時十二分。
男が直人を見る。
「今のは仕事?」
直人は答えかけて、やめた。
「助かったのは本当」
「いくら?」
「値段は分からない」
「じゃあ、箱は?」
「箱とは別じゃない?」
男は眉を寄せた。
「じゃあ何のためにやったんだ」
直人が言う。
「困ってたからじゃないの」
男は床を見る。
転がっていた缶詰はもうない。
◇
正午。
男は昼食を買うため、箱から七十円使った。
名前を書く。
金額を書く。
《返せるか不明》と書く。
誰も、朝から何分働いたかは書かなかった。
紙袋を拾ったことも書かなかった。
箱の残高は百二十円になった。
「これでいいのかな」
男が言った。
森田が答える。
「分からない」
「仕事してないのに」
「必要なことはしただろ」
「でも三分だぞ」
「三分だから七十円、でもない」
◇
午後零時十八分。
男はバーガーを食べていた。
朝に作ろうとした仕事は、一つもやらなかった。
きれいなテーブルは拭かなかった。
整った荷物は崩さなかった。
窓も磨かなかった。
その代わり、破れた袋を拾った。
必要になったときだけ、三分。
箱から使った七十円とは、まだ交換されていない。
直人はそれでいいと思い切れなかった。
男も同じ顔をしていた。
それでも、仕事を作るために仕事を増やすことだけはしなかった。




