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第91話 森田さんじゃなくても


三十七日目、午前八時六分。


森田が言った。


「午前中、箱のこと聞かないでくれ」


高校生が顔を上げる。


「どっか行くんですか?」


「寝る」


「ここで?」


「奥で」


森田は壁際ではなく、客席から見えにくい通路の先を指した。


「見えると呼ばれるから」


冗談みたいに言った。


誰も笑わなかった。


◇


午前八時十二分。


箱の横には昨日の《使い方》が貼ってある。


一、使ったら名前を書く。


二、金額を書く。


三、返せるかを書く。


四、残高を自分で確認する。


森田はそれを一度読んだ。


「これでだいたい分かる」


直人へ言う。


「分からなかったら?」


「昼まで待って」


「急ぎだったら?」


「直人が決めて」


「俺?」


「誰でもいい」


森田は毛布を持って奥へ行った。


◇


午前八時四十一分。


最初の問題が来た。


五十代の男が箱を見る。


残高は九十円。


「百二十円足りない」


直人が言う。


「九十円しかない」


「じゃあ九十円だけ使って、残りは誰かに借りる?」


直人は《使い方》を見る。


そこには書いていない。


「……いいんじゃない?」


「誰に借りる?」


「それは自分で聞いて」


男は少し不満そうだったが、頷いた。


九十円を使う。


箱は空になった。


◇


午前九時三分。


由佳が百円玉を一枚持ってきた。


「これ入れていい?」


直人が答える。


「いいと思う」


「名前書く?」


「入れる方は……」


止まる。


昨日、森田に聞いていた質問だった。


「書いた方がいいんじゃない?」


由佳は紙へ書いた。


《由佳 100円 入》


「これでいい?」


「たぶん」


「たぶん多いね、今日」


「俺も思ってる」


◇


午前九時二十九分。


高校生が箱を数えた。


「百円あります」


「うん」


「紙だと、九十円使って百円入ったから百円」


「合ってる」


「俺でもできた」


高校生が少し嬉しそうに言う。


直人も笑った。


その直後、黒瀬が来た。


「昨日の五十円、返すって書いてあったやつ、返ってる?」


高校生と直人が同時に黙った。


◇


午前九時三十四分。


記録を上から読む。


高校生の五十円は昨日返済済み。


五十代の男の百二十円は返済不明。


今日の九十円は返せるか不明。


由佳の百円は入金。


「どれの話?」


直人が聞く。


黒瀬も紙を見る。


「あれ。高校生のやつ」


「返したよ」


高校生が言う。


「じゃあいい」


三人とも安心した。


何も起きていない。


確認に五分かかっただけだった。


◇


午前十時七分。


今度は女性が来た。


「これ、返せないって書いたら、ずっと返さなくていいの?」


直人が固まった。


高校生が《使い方》を見る。


答えはない。


「森田さんなら分かるかな」


高校生が言う。


直人が奥を見る。


「昼まで聞かない」


「じゃあどうする?」


直人は考えた。


「今は、返せないって書いてあるものはそのままにしよう」


「それでいいの?」


「分からない。でも勝手に返せることにするよりはいい」


女性は頷いた。


答えではなく、保留だった。


◇


午前十時五十二分。


箱の残高は百円。


記録も合っている。


誰も森田を呼んでいない。


その代わり、判断は遅くなった。


確認に時間がかかった。


分からないものが二つ、紙の端に書かれた。


《返せない、はいつまで?》


《入れる人の名前は必要?》


高校生が言う。


「森田さんいた方が早いですね」


直人が答える。


「そりゃそうだろ」


「でも、いなくても止まってない」


二人で箱を見る。


百円。


少なくとも、朝からここまでは動いている。


◇


午後零時四分。


森田が戻ってきた。


髪が少し潰れていた。


「どうだった?」


直人が紙を渡す。


「合ってると思う。分かんないのはここ」


森田は二つの質問を読む。


すぐ答えようとして、止まった。


「これ、俺が決めること?」


直人も止まる。


高校生が言った。


「昨日までは決めてましたよ」


「決めてたっていうか、聞かれたから答えてた」


森田は紙をテーブルへ置いた。


◇


午後零時十一分。


四人で考えた。


返せない記録は、消さずに残す。


返せるようになったら本人が書き直す。


入れる人の名前は、本人が書きたければ書く。


匿名でもいい。


高校生が《使い方》の下へ二行追加した。


五、分からないことは紙に残す。


六、一人で決めない。


森田が読む。


「これなら俺じゃなくてもいいな」


「たぶん」


直人が答えた。


森田が笑う。


「また、たぶんか」


◇


午後一時二十分。


森田は昼食を食べていた。


途中で箱の前に人が来た。


森田は顔を上げた。


直人も気づいた。


「俺見るよ」


森田は一瞬だけ止まった。


それから、バーガーへ視線を戻した。


今日初めて、箱の前に人が立っているあいだも食べ続けた。


森田は最後まで、昼のバーガーを温かいうちに食べた。

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