第90話 森田さんを呼んで
三十六日目、午前六時五十二分。
森田はまだ寝ていた。
壁際の毛布の上で、横を向いている。
箱はテーブルの上にある。
残高、九十円。
記録用紙は箱の下。
高校生が朝食を買おうとして、財布を開いた。
「五十円足りない」
直人が箱を見る。
「書けば使えるんじゃない?」
高校生も箱を見る。
それから森田を見る。
「森田さん、起こします?」
◇
「起こさなくていいだろ」
直人が言った。
「でも昨日、森田さんが全部聞いてたじゃないですか」
「使ったら名前と金額と、返せるかを書く」
「それだけでしたっけ」
直人は止まった。
それだけだったはずだ。
でも、誰かが使うたびに森田が紙を見ていた。
残高を数えたのも森田。
質問に答えたのも森田。
いつの間にか、決まりと森田が同じものになり始めていた。
◇
午前六時五十七分。
高校生は自分で紙を出した。
《50円 朝 返せる》
名前を書く。
箱から五十円取る。
残り四十円。
「これでいいよな」
「たぶん」
二人とも小声だった。
森田は起きなかった。
高校生がレジへ向かう。
秩序がいつもの声で言う。
「おはようございます」
◇
午前七時四十三分。
由佳が箱の前で止まった。
「四十円?」
「高校生が五十円使った」
直人が答える。
「森田さん知ってる?」
「寝てる」
由佳も森田を見る。
「じゃあ起きたら言わないと」
「紙に書いてあるよ」
「でも……」
言いかけて、由佳は黙った。
「なんで森田さんに言うんだろ」
直人も答えられなかった。
◇
午前八時十九分。
森田が起きた。
トイレへ行く途中で箱を見る。
足を止める。
「四十円?」
高校生がすぐ振り向いた。
「俺です。五十円使いました。書きました」
「うん」
森田は紙を見る。
「返せる、か」
「今日中に」
「分かった」
それだけだった。
森田はトイレへ向かう。
高校生が直人へ小声で言った。
「怒られなかった」
「なんで怒られると思ったんだよ」
「分かんない」
◇
午前九時十二分。
「森田さん」
別の女性が呼んだ。
「この紙、どう書くの?」
森田が説明する。
午前九時二十八分。
「森田さん」
黒瀬が呼ぶ。
「昨日の百二十円って返す扱い?」
森田が答える。
午前九時四十六分。
「森田さん」
由佳が呼ぶ。
「箱に入れる方も名前書く?」
森田が紙を見て考える。
午前十時三分。
「森田さん」
高校生が呼ぶ。
「五十円返しました」
森田が残高を数える。
九十円。
「合ってる」
◇
午前十時二十二分。
森田はコーヒーを持って、窓際の席へ移った。
座る。
一口飲む。
目を閉じる。
「森田さん」
三秒だった。
森田が目を開ける。
五十代の男が立っている。
「昼も箱から使っていい?」
森田はコーヒーを置いた。
「いくら足りない?」
「まだ決めてない」
「じゃあ注文決めてから」
「分かった」
男が離れる。
森田はまた目を閉じた。
◇
午前十一時十一分。
美咲が言った。
「森田さん、今日何回呼ばれた?」
森田が笑う。
「知らない」
「数えようか」
「やめてくれ」
笑って答えたが、目の下に薄く影があった。
直人が箱を見る。
箱そのものは軽い。
九十円しか入っていない。
でも、誰かが使うたびに判断が要る。
誰かが入れるたびに確認が要る。
紙が増えれば、残高を合わせる人が要る。
決まりが曖昧なら、知っている人へ質問が集まる。
その「知っている人」が、森田になっていた。
◇
午後零時四分。
昼食の列ができた。
五十代の男が財布と箱を見比べている。
「森田さん」
また呼んだ。
森田はバーガーを半分まで食べたところだった。
手を止める。
「百円、使いたい」
「今、九十円しかない」
「あ、そうか」
「九十円なら」
「いや、いい」
男が離れる。
森田はバーガーを見る。
少し冷めていた。
◇
午後零時二十七分。
高校生が紙を一枚、箱の横へ貼った。
《使い方》
一、使ったら名前を書く。
二、金額を書く。
三、返せるかを書く。
四、残高を自分で確認する。
「これで森田さん呼ばなくてよくないですか」
直人が読む。
「分からないことがあったら?」
高校生は少し考えた。
五番を書こうとして、ペンを止めた。
《森田さんに聞く》
書きかけた文字を、ぐしゃぐしゃに塗りつぶした。
「それ書いたら意味ないか」
◇
午後一時六分。
森田は窓際で横になった。
眠ってはいない。
目を閉じているだけだった。
箱の横には《使い方》が貼られている。
四つの項目。
森田の名前はない。
それでも、誰かが箱の前で立ち止まるたび、森田は一度だけ目を開けた。




