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第89話 値札のない仕事


三十五日目、午前七時三十八分。


五十代の男が床を掃いていた。


昨日、八十円を箱から使った男だった。


誰かに頼まれたわけではない。


入口の近くに砂が落ちているのを見つけ、壁際のほうきを取った。


「それ、店の人がやるんじゃないですか」


高校生が言った。


男は手を止める。


少し離れた場所では、クルーが別の床をモップで拭いていた。


「じゃあ、やめる?」


「いや。別に」


男はまた掃き始めた。


◇


午前八時十一分。


美咲が子どもをトイレへ連れていった。


そのあいだ、直人は荷物箱を整理していた。


「これ見てて」


美咲が戻る前、子どもがぱむちゃんライトを高校生へ渡した。


「ぼく、てあらう」


「はいはい」


高校生はライトを預かる。


子どもが美咲と洗面台へ行く。


高校生はスマートフォンを見ながら、ライトが床へ落ちないよう膝の上へ置いた。


三分ほどだった。


子どもが戻る。


「ありがとう」


高校生が返す。


「どういたしまして」


誰も紙に書かなかった。


◇


午前九時二十六分。


由佳が母の薬を整理していた。


空になった袋。


まだ使う薬。


日付を書いた紙。


隣の席の女性が聞く。


「それ、何の薬?」


由佳が説明する。


「こっちは血圧。これは朝だけ」


「私のと似てる」


女性が自分の袋を出す。


「これ、いつ飲むか分かる?」


由佳は袋の表示を読む。


「ここに朝食後って書いてあります」


「見えなくて」


「大きく書きます?」


紙に太い字で《朝》と書く。


女性が礼を言う。


由佳はまた母の薬へ戻った。


これも、誰も数えなかった。


◇


午前十時四十九分。


「仕事って、何なんだろうな」


森田が言った。


箱の残高を数えながらだった。


二百十円。


昨日から変わっていない。


直人が聞く。


「急にどうした」


森田は入口を見る。


男が掃除を終えて、今度は段ボールを畳んでいる。


「昨日、何かできることって話になっただろ」


「うん」


「あれを仕事にするなら、いくらなんだ」


「掃除?」


「掃除だけじゃなくて」


森田が店内を見る。


◇


子どもを三分見る。


読みにくい薬袋を読む。


寝ている人の毛布を掛け直す。


入口近くの荷物を通路から退ける。


水がこぼれたら拭く。


充電ケーブルが抜けていたら挿す。


外から戻った人の荷物を一つ持つ。


誰かがしている。


毎日、何度も。


でも、バーガーのように一個とは数えられない。


値札もない。


◇


午前十一時三分。


黒瀬が言う。


「時間で決めれば?」


「一時間いくらって?」


「そう」


由佳が首を傾げる。


「じゃあ子どもを三分見たら?」


「三分ぶん」


「薬の文字を一個読んだら?」


「……知らん」


「夜ずっと起きて、具合悪い人見てたら?」


黒瀬は黙った。


高校生が言う。


「逆に、何もしないでそこにいてくれるだけで助かるときもありますよね」


「それ、仕事?」


誰も答えなかった。


◇


午前十一時二十一分。


五十代の男が戻ってきた。


「掃除、終わった」


森田が箱を見る。


男も箱を見る。


一瞬だけ、両方の視線が同じところに落ちた。


「……金、もらえるの?」


男が聞いた。


森田はすぐに答えなかった。


「まだ、そういう決まりじゃない」


「そうか」


男はそれ以上言わなかった。


黒瀬が口を開きかける。


由佳が先に言った。


「掃除してくれたのは助かった」


「うん」


男は少しだけ頷いた。


◇


正午。


男は自分の財布を開いた。


昨日とほとんど変わっていない。


昼食を買うには足りない。


箱には二百十円ある。


「使っていい?」


男が聞いた。


今度は、勝手に取らなかった。


森田が記録の紙を見る。


「いくら足りない?」


「百二十円」


「返せる?」


「分からない」


森田が頷く。


「書いて」


男は名前と金額を書く。


《120円 昼 返せるか不明》


箱から百二十円を取る。


掃除をしたから使えたわけではない。


掃除をしなければ使えなかったとも、誰も言わなかった。


◇


午後零時十四分。


箱には九十円残った。


床は朝よりきれいだった。


高校生は三分、子どもの物を預かった。


由佳は薬袋の文字を大きく書いた。


どれにも値段はつかなかった。


それでも、それがなければ少しずつ困る。


金のない人へ仕事を渡せば、箱は説明しやすくなるかもしれない。


けれど、値札をつけた瞬間に、今まで誰も数えずにしていたことまで数える必要が出てくる。


森田は残った九十円と、朝から誰かがしていたことを交互に見た。


金額にできない仕事の方が、店内には多かった。

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