第88話 払わなかった人
三十四日目、午後零時十九分。
《足りないときの箱》には、二百九十円入っていた。
森田が朝に数えた。
昼前にも数えた。
高校生が十円使った記録も残っている。
だから二百九十円。
そのはずだった。
「二百十円しかない」
森田が言った。
◇
直人が箱を覗く。
百円玉が一枚。
五十円玉が一枚。
十円玉が六枚。
二百十円。
「八十円足りない?」
「うん」
「誰か使った?」
高校生が聞く。
誰も答えない。
横の紙には一行だけ。
《高校生 10円 昼》
昨日の記録だ。
今日の記録はない。
◇
午後零時二十三分。
「取ったやついるってこと?」
黒瀬が言った。
「使った人、じゃない?」
由佳が言い直す。
「書かなかったなら同じだろ」
「同じじゃないよ」
美咲が箱を見る。
「払うつもりだったかもしれないし」
「何を?」
「後で戻すとか」
「じゃあ書けばいい」
「書き方分からなかったとか」
黒瀬が眉を寄せる。
「八十円だぞ」
金額が小さいからこそ、言葉が荒くなりかけていた。
◇
午後零時二十七分。
森田が言った。
「昨日、決めたのは『使ったら書く』だけだ」
全員が森田を見る。
「返すかどうかは決めてない。いくらまで使っていいかも決めてない。誰が使っていいかも、ちゃんとは決めてない」
「でも勝手に取るのは」
黒瀬が言う。
「勝手、の範囲も決めてない」
森田は箱を閉じた。
「先に、誰が使ったか聞こう」
◇
午後零時三十四分。
店内にいる人へ順番に聞いた。
三人目で見つかった。
昨日からいる五十代の男だった。
「ああ、使った」
男は悪びれずに答えた。
「八十円」
黒瀬が言う。
「なんで書かなかった?」
「書くの知らなかった」
「紙、横にあるだろ」
「見てなかった」
「金は?」
「ない」
そこで会話が止まった。
◇
午後零時三十七分。
「何に使ったんですか」
直人が聞いた。
「朝のコーヒー」
「八十円だけ足りなかった?」
「そう」
「手持ちは?」
「ほぼない」
森田と同じだった。
いや、森田より少ないかもしれない。
「家に取りに行ける?」
男は窓の外を見る。
「家、遠い」
「どのくらい」
「電車で四十分くらいだった」
電車は来ない。
◇
午後零時四十一分。
黒瀬が腕を組む。
「じゃあ、これからずっと箱から出すのか?」
男は答えない。
直人も答えられない。
一回だけなら八十円だった。
朝に八十円。
昼に百円。
夜に百円。
毎日なら、箱はすぐ空になる。
でも、金がないから食べるな、と決めたわけでもない。
箱を作ったのは、足りないときに使うためだった。
足りない人が本当に現れたら困る、では意味がない。
◇
午後零時四十八分。
由佳が聞いた。
「今、何かできることあります?」
男が顔を上げる。
「何かって?」
「お金じゃなくて。ここで」
「掃除とか?」
「それでもいいし」
黒瀬が言う。
「働いた分だけ箱から使うってこと?」
由佳は首を振った。
「そこまで決めてない」
「じゃあ何のために聞いたんだよ」
「ずっと一方だけになるのが嫌なんじゃない?」
男が黙って聞いている。
◇
午後一時二分。
森田が紙を新しくした。
《使ったら、金額と名前を書く》
その下へもう一行。
《返せるかどうかも書く》
黒瀬が読む。
「返せないって書けば使っていいの?」
「まだそこは決めてない」
「何も決まってないじゃん」
「昨日より二つ決まった」
森田はそう言って、男を見る。
「今日の八十円は?」
男がペンを取った。
《80円 朝コーヒー 返せない》
少し迷って、その前へ自分の名前を書いた。
◇
午後一時十一分。
箱には二百十円。
なくなった八十円は戻っていない。
誰も男を追い出さなかった。
誰も八十円をなかったことにもしなかった。
森田は記録の紙を箱の下へ差し込んだ。
八十円の不足は、金額ではなく名前のある問題になった。




