第9話 空いた手
午前七時十二分。
直人は会社へ着く前に、スマートフォンで今日の一覧を見た。
車両六。
使用可、五。
運転手七。
出勤可、五。
一人は本人が発熱。
一人は家族が発熱。
昨日なら、そこで組み替えを始めていた。
今日は表の下に、すでに代替案が入っている。
柴崎が一件を引き受けた。
別会社が西側二件を持つ。
スーパー側は午後受け取りへ変更。
直人が会社へ着いたとき、最初の車はもう出たあとだった。
「遅刻?」
主任が言う。
「定時前です」
「相沢より先に便が出ると、遅刻に見えるな」
机に鞄を置く。
やることがないわけではない。
でも、手が空いている。
それが落ち着かなかった。
直人は表を上から確認した。
一件目。
問題なし。
二件目。
問題なし。
三件目。
主任が横から覗く。
「それ、もう柴崎が見たぞ」
「確認です」
「昨日もそれ言ってたな」
直人は画面を閉じた。
午前八時四十分。
美咲から電話が来た。
勤務中に電話してくることは珍しい。
「どうした?」
『四〇二号室の人、熱出たって』
直人は椅子から立った。
「何度?」
『三十八度一分。管理人さんが測った』
「噛まれた?」
『ないって』
「体液は?」
『それも分からないって。昨日は外に出てないらしいよ』
四〇二号室。
七話で作った紙が頭に浮かぶ。
自室待機。
朝夕確認。
必要物資は玄関前。
返事がなければ、まず呼ぶ。
「一人暮らし?」
『うん』
「食べ物は?」
『今日の分はあるって』
直人は時計を見る。
「じゃあ、前と同じで」
口にしてから、一瞬だけ止まった。
前と同じ。
条件は似ている。
でも同じ人ではない。
「本人は、それでいいって?」
『聞いた。部屋にいたいって』
「分かった」
電話を切る。
主任が見る。
「家?」
「マンションで発熱者が出ました」
「帰るか?」
直人は反射的に表を見た。
五台。
五人。
もう動いている。
「いえ。今は大丈夫です」
午前十時。
会社では何も起きなかった。
一本遅れた。
受け取り側から時間変更が来た。
別会社が一本追加で引き受けた。
どれも直人がいなくても処理された。
十一時二十六分。
美咲からメッセージ。
《四〇二、返事あり。水置いた》
直人は《了解》と返した。
昼休み。
今度は管理人から電話が来た。
『相沢さん、すみません』
声が固い。
「どうしました」
『四〇二号室、返事がないんです』
直人は立ち上がった。
「何回呼びました?」
『インターホン三回。電話も二回』
「最後に返事したのは?」
『十一時前です』
「玄関前の水は?」
『そのままです』
「中で音は?」
『分かりません』
直人は時計を見る。
二時間弱。
「救急は?」
『電話しました。すぐには行けないと言われました』
直人は鞄を取った。
主任がこちらを見る。
「帰ります」
「行け」
理由を説明する前に言われた。
駐車場へ向かいながら、直人は黒瀬へ電話した。
『何』
「今どこ?」
『家』
「四〇二の人、返事がなくなった」
数秒、沈黙。
『管理人は?』
「いる」
『鍵は』
「まだ聞いてない」
『聞け』
電話が切れた。
直人は管理人へかけ直す。
マスターキーはある。
ただし内側の補助錠が掛かっていれば開かない。
「勝手に入っていいんでしょうか」
管理人が言う。
昨日、紙に書いた言葉を思い出す。
勝手に入らない。
まず呼ぶ。
もう呼んだ。
本人から返事がない。
「救急には連絡済みですよね」
『はい』
「僕も戻ります。黒瀬にも連絡しました」
午後零時十四分。
集合住宅へ着いた。
エントランスに美咲、管理人、藤村佳代がいる。
黒瀬はいない。
「黒瀬は?」
「上」
藤村が言った。
直人は階段を上る。
四階。
黒瀬は四〇二号室の前にしゃがんでいた。
工具箱が開いている。
「何してるの」
「見てる」
「何を?」
「ドア」
管理人が追いつく。
マスターキーを差す。
回る。
ドアは数センチだけ開いて止まった。
補助錠。
「掛かってます」
黒瀬が隙間を覗く。
「四〇二さん!」
直人が呼ぶ。
返事はない。
もう一度。
ない。
黒瀬が立ち上がる。
「切るぞ」
管理人が顔を上げる。
「え?」
「チェーンじゃない。バー。隙間から工具入る」
「壊れます?」
「たぶん」
直人はドアを見る。
本人は朝、自室にいたいと言った。
勝手に入らないと決めた。
でも、それは返事ができる本人を前提にしていた。
今は違う。
「やってください」
直人が言った。
黒瀬が直人を見る。
「お前が決めるの?」
その一言で、直人は止まった。
管理人が言った。
「私がお願いします。管理上の責任は私が持ちます」
黒瀬は頷いた。
「じゃあ壊す」
工具が隙間へ入る。
金属音。
一度。
二度。
三度目で、内側から何かが落ちた。
ドアが開く。
黒瀬が先に入ろうとする。
直人が腕を掴んだ。
「待って」
「何」
「感染かもしれない」
「じゃあ誰が見る」
誰も答えない。
黒瀬はマスクを上げた。
手袋をする。
「触らなきゃいいんだろ」
「それも確定してない」
「知ってる」
黒瀬は中へ入った。
直人も玄関まで入る。
「四〇二さん!」
奥から、低い音がした。
呻き声。
寝室の横、廊下に男が倒れている。
動いている。
直人の身体が固まった。
昨日まで見ていた動画が、一瞬で重なる。
黒瀬は止まらなかった。
「おい。聞こえるか」
男の肩には触れず、顔の近くへしゃがむ。
呼吸している。
「息ある」
直人はスマートフォンを出した。
救急へ再度連絡する。
意識反応が弱い。
呼吸あり。
高熱。
咬傷歴なし。
今度は優先度が変わった。
『救急隊を向かわせます』
到着まで十八分。
十八分。
黒瀬は玄関へ戻った。
「水は?」
「意識悪いなら飲ませないほうがいい」
「じゃ、待つか」
二人で廊下に座った。
部屋の中から呼吸音だけが聞こえる。
黒瀬の手袋が、少し震えていた。
直人はそれを見た。
「怖い?」
「当たり前だろ」
黒瀬は短く答えた。
「じゃあ、なんで入ったの」
「誰か入らないと、倒れてるかも分からんだろ」
「でも」
「お前、会社から戻ってきたじゃん」
直人は黙った。
黒瀬が壁へ背を預ける。
「同じだろ」
違う、と言いかけた。
直人は仕事を抜けただけだ。
黒瀬は、正体の分からない病気の人がいる部屋へ入った。
同じではない。
でも黒瀬は比較していなかった。
自分に空いた手があった。
だから使った。
救急車の音が近づく。
搬送された男は、その日の夕方にも生きていた。
少なくとも管理人が病院へ確認した時点では、意識も戻っていた。
感染者が暴れたわけではない。
死者が起き上がったわけでもない。
ただ、高熱で一人の男が倒れた。
そして、決めておいた手順だけでは、最後の扉を開けられなかった。
壊した補助錠が、四〇二号室の玄関脇に置かれていた。
直人は帰宅前、それを拾い上げた。




