第10話 帰ってきた荷物
四〇二号室の扉は、翌朝には閉まるようになっていた。
補助錠だけがない。
直人が出勤しようとすると、廊下で黒瀬が新しい金具を合わせていた。
「もう直すの?」
「穴そのままだと嫌だろ」
「部品あったんだ」
「似たのが工具箱にあった」
「いくら?」
黒瀬は答えず、ねじを一本くわえた。
管理人が横から言う。
「費用は管理会社へ請求しますから」
黒瀬がねじを締める。
「通ったらでいいよ」
「通らなかったら?」
「別に」
直人は時計を見る。
「今日、仕事は?」
「現場止まった」
「いつまで?」
「知らん」
電動ドライバーが短く鳴る。
仕事がなくなった時間が、四〇二号室の扉を直している。
直人はそれ以上聞かず、階段を下りた。
会社へ着くと、倉庫の入口に昨日より荷物が多かった。
出荷前ではない。
戻ってきた荷物だった。
「これ全部?」
主任が頷く。
「昨日の持ち戻り」
伝票を見る。
受取人不在。
道路封鎖。
施設閉鎖。
受け取り拒否。
連絡不能。
「必要なものですよね」
「たぶんな」
水。
紙おむつ。
衛生用品。
缶詰。
どれも不足しているという話を毎日聞く。
それが倉庫へ戻ってきている。
柴崎が箱を一つ持ち上げた。
「物はあるんだけどな」
直人は返事をしなかった。
九時。
配送先へ一本ずつ確認する。
一件目。
『昨日から避難所へ移りました』
新しい受け取り先を聞く。
二件目。
電話が繋がらない。
三件目。
『もう持ってこなくて大丈夫です』
「足りたんですか」
『違います。店、閉めました』
直人は伝票の余白へ線を引いた。
必要が消えたわけではない。
受け取る場所が消えた。
四件目。
道路が封鎖されたまま。
五件目。
別会社が途中までなら運べる。
直人は荷物を二つに分けた。
もう一度出すもの。
いったん残すもの。
以前なら、残った荷物を見れば未処理に見えた。
今日は違う。
無理に出せば、また戻る。
昼前。
美咲から写真が届いた。
集合住宅の駐車場。
黒瀬の車の後ろに、藤村佳代と管理人が立っている。
荷室には米、飲料、トイレットペーパー。
《買い出し行ってきた》
直人は画面を拡大した。
《誰が決めたの?》
送ってから、少し嫌な感じがした。
美咲からすぐ返ってくる。
《みんな》
続けて、
《昨日の夜、必要なもの聞いた》
《黒瀬さんが車出すって》
《管理人さんが店に電話して在庫確認した》
《佳代さんが数まとめた》
直人は四つのメッセージを読み直した。
自分は何も知らなかった。
なのに、買い出しは終わっている。
《足りた?》
《だいたい》
《だいたい?》
《卵なかった》
そこで会話は終わった。
直人はスマートフォンを伏せた。
主任が言う。
「どうした」
「家のほうで、買い出ししてました」
「お前抜きで?」
「はい」
主任が笑った。
「よかったじゃん」
直人も、少し遅れて笑った。
「そうですね」
午後二時。
会社の共有端末に、新しい行政通知が届いた。
直人は開く。
症例調査の途中経過。
高熱。
意識障害。
攻撃行動。
咬傷および体液接触歴。
そこまでは昨日までと同じだった。
一行、増えている。
《一部症例について、明確な咬傷歴が確認されていないため、接触状況を含む感染経路を調査中》
直人は画面を止めた。
柴崎が横から覗く。
「噛まれてない人もいるってこと?」
「そうとは書いてないです」
「書いてるだろ」
「咬傷歴が確認されてない、です。なかったと確定したわけじゃない」
柴崎が肩をすくめる。
「細かいな」
「違います」
直人は通知をもう一度読む。
噛まれた人に起きる。
いつの間にか、そう考えていた。
公式には一度も、そこまで断定されていなかった。
噛まれたら危険。
それが、噛まれなければ安全、へ変わっていた。
自分の中で。
「航平さん」
「ん?」
「最近、発熱した人と近くで話したりしました?」
柴崎は少し考えた。
「仕事で?」
「仕事じゃなくても」
「ないと思うけど」
「家族は?」
「元気」
「分かりました」
柴崎が笑う。
「急に怖くなった?」
「前提が変わっただけです」
「まだ変わってないだろ」
直人は答えなかった。
確かに、まだ何も確定していない。
ただ、安全だと思う根拠が一つ減った。
夕方。
持ち戻り荷物の半分が、別の受け渡し先へ出ていった。
残り半分は倉庫に残った。
直人は帰る前に、その列を見た。
届けられなかった荷物。
ではない。
今日、届けないと決めた荷物も混じっている。
違いは伝票を見なければ分からない。
「相沢」
柴崎が鞄を肩に掛けていた。
「明日、ちょっと遅れる」
「何時くらいです?」
「九時には来る」
「理由は?」
柴崎は一瞬だけ止まった。
「家の用事」
直人は頷いた。
「分かりました。朝の一本、別に回します」
「悪い」
それだけだった。
帰宅すると、四〇二号室の扉に新しい補助錠が付いていた。
前のものとは形が違う。
黒瀬が合わせたものだ。
少し下に、元のねじ穴が残っている。
完全には元に戻っていない。
エントランスには、昼の買い出しで余ったトイレットペーパーが二袋置かれていた。
《必要な人、一個ずつ》
藤村の字。
直人は一つも持たず、エレベーターへ乗った。
今日、自分がいないところで、扉が直った。
買い出しが終わった。
必要なものが分けられた。
一方で会社には、必要なのに帰ってきた荷物が積まれている。
物があること。
人がいること。
必要としていること。
それだけでは、届かない。
そして安全だと思っていた条件も、一つ欠け始めていた。
直人は六階のボタンを押す。
扉が閉まる直前、黒瀬が外から手を入れた。
「待て」
扉が開く。
黒瀬が乗る。
「今日、ありがとう」
「何が」
「買い出し」
「俺が欲しいもんもあったから」
「扉も」
「穴開けたの俺だし」
エレベーターが上がる。
直人は笑った。
黒瀬は礼を受け取った顔をしなかった。
ただ、自分にできることをやっただけという顔だった。
六階。
扉が開く。
直人が先に降りる。
明日の配送表には、柴崎の名前が一時間だけ空く。
理由の欄には何も書かなかった。
家の用事。
今は、それで足りると思った。




