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第11話 聞かなかったこと


八時五十七分。


柴崎航平は、本当に九時前に来た。


「おはよう」


いつもと同じ声だった。


マスクをしている。


それも、もう珍しくない。


直人は壁の体温計を指した。


「一応、お願いします」


「はいはい」


三十六度五分。


「健康」


航平が画面を見せる。


直人は頷いた。


「朝の一本はもう出ました。十時から西側お願いします」


「了解」


昨日、一時間だけ空けた欄に名前を戻す。


家の用事。


それ以上は聞かなかった。


午前十時二十分。


休憩室のテレビが、音量を絞ったまま点いていた。


ニュース速報の帯が流れる。


《感染経路調査対象を拡大》


直人は足を止めた。


昨日の続報だった。


咬傷歴を確認できない症例が複数。


発症者との同居、長時間の近接、体液接触の有無を調査。


感染経路は未確定。


「また増えたな」


主任が紙コップを捨てる。


「何がです?」


「分からないこと」


直人はテレビを見る。


分からないことが増えた。


だから、確認することも増える。


そう思った。


そのとき、後ろで航平が言った。


「長時間って、どれくらいだろ」


直人が振り向く。


航平はテレビを見ていた。


「心当たりあるんですか」


「いや」


一拍置いた。


「一昨日、姉ちゃんのとこ行ったんだよ」


直人は黙った。


「姉ちゃんは元気。彼氏がいた」


「その人は?」


「昨日、熱出たって」


休憩室の音が遠くなった。


「どのくらい一緒にいました?」


「一時間くらい」


「同じ部屋?」


「うん」


「マスクは?」


航平が考える。


「俺はしてた。向こうは途中から外してたかな」


「近くで話しました?」


「普通に」


「咳は?」


「そのときはしてなかったと思う」


「触りました?」


「いや」


航平の声が少し硬くなる。


「噛まれてないぞ」


直人は昨日の会話を思い出した。


最近、発熱した人と近くで話したりしました?


ないと思うけど。


家族は?


元気。


嘘をつかれた、とは思わなかった。


航平の中では、昨日の時点でこれは関係のない話だったのだ。


「主任」


直人が呼ぶ。


主任がテレビの前へ戻ってくる。


事情を聞く。


眉間に皺を寄せた。


「規則だと、同居家族の発熱か本人の症状だな」


「姉の交際相手は?」


「書いてない」


航平が言う。


「俺、元気ですよ」


「分かってる」


主任が答えた。


「分かってるけど、俺だけで決めるのも嫌だな」


上へ電話する。


待つ。


その間、航平は休憩室の隅に立っていた。


誰も近づくなとは言っていない。


でも、誰も近づかなかった。


直人もだった。


それに気づいたのは、航平が半歩だけ壁際へ寄ったときだった。


「外、行きます?」


直人が言う。


「なんで」


「ここ狭いから」


航平が少し笑う。


「もう遅いだろ。朝からいたし」


冗談のようだった。


誰も笑わなかった。


十分後。


主任が電話を切る。


「今日は帰って、自宅待機。体温は朝晩。症状出たら指定先へ連絡」


航平が眉を上げる。


「何日?」


「まだ分からん。向こうの検査結果次第」


「給料は?」


主任が止まった。


「確認する」


「そこ大事だろ」


「大事だよ。だから確認する」


航平は机に置いた鍵を取った。


直人が言う。


「車、運転して帰るんですか」


「俺の車だよ」


「あ、いや」


何を聞こうとしたのか、自分でも分からなかった。


航平が直人を見る。


「相沢」


「はい」


「昨日、聞いたよな。発熱した人と会ってないかって」


「聞きました」


「俺、ないって言ったよな」


「はい」


「嘘ついたつもり、ないからな」


「分かってます」


「ほんとか?」


直人は答えるまで少し時間がかかった。


「昨日は、僕も家族しか聞かなかったです」


航平は何も言わなかった。


鍵を握ったまま、休憩室を出ていった。


午前十一時。


西側の便から航平の名前を消す。


別の運転手へ振る。


一本だけ午後へずらす。


仕事は回った。


昨日作った仕組みが役に立った。


だから困らなかった。


そのことが、直人には少し気持ち悪かった。


航平が一人抜けても、配送は続く。


それは必要なことだ。


でも、表から名前を消す作業があまりにも簡単だった。


昼。


美咲へ電話した。


「昨日、航平さんが遅れるって言った話、覚えてる?」


『家の用事ってやつ?』


「うん」


事情を話す。


美咲はしばらく黙った。


『それ、昨日聞いてたらどうした?』


「休ませたと思う」


『本当に?』


「たぶん」


『会社の規則になかったんでしょ』


「でも今なら」


『今なら、でしょ』


直人は窓の外を見る。


駐車場を一台、配送車が出ていく。


「じゃあ、全部聞けばよかった?」


『そういう意味じゃないよ』


「でも聞かなかったから、今日来た」


『昨日、家の用事って言われて、姉の彼氏が熱出してませんかって聞く?』


「聞かない」


『でしょ』


「じゃあ仕方ない?」


『それも違うんじゃない』


美咲の声の向こうで、何かを切る音がする。


包丁。


昼食を作っているらしい。


『聞かなかったことと、聞けなかったことって同じなの?』


直人は答えられなかった。


午後。


会社から全員へ新しい連絡が出た。


《本人または同居家族に限らず、発熱者との長時間の近接があった場合は申告してください》


昨日までなかった一文。


航平の件を受けて追加された。


直人はそれを読んだ。


これで次からは聞ける。


少なくとも、同じ形なら。


夕方、航平からメッセージが来た。


《三六・七》


体温だけ。


直人は《了解です》と打った。


消した。


《体調は?》


《普通》


《姉さんは?》


《元気》


《彼氏さんは?》


少し間が空いた。


《病院。検査待ち》


直人は画面を見た。


まだ分からない。


航平が感染しているか。


姉の交際相手が、例の感染症なのか。


一昨日の一時間が危険だったのか。


何も確定していない。


ただ一つ、昨日と違う。


昨日なら、航平の「家の用事」はそこで終わっていた。


今日は、その言葉の後ろに何かあるかもしれないと知っている。


だからといって、全部を聞けばいいわけでもない。


夕食のあと。


直人は会社から送られてきた新しい申告文をもう一度開いた。


発熱者との長時間の近接。


美咲が横から見る。


「増えたね」


「うん」


「また増えるかもね」


「うん」


「全部書ける?」


直人は首を振った。


直人はスマートフォンを伏せた。


画面には、今日追加された一行が残っている。


《発熱者との長時間の近接》


その下には、まだ何も書かれていなかった。

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