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第12話 外から来た人


午後五時四十一分。


直人が会社を出ると、航平から体温だけ届いた。


《三六・六》


朝より一分低い。


《体調は?》


《暇》


直人は少し笑った。


《それならよかったです》


送って、スマートフォンをしまう。


会社の駐車場には、持ち戻りの荷物を積んだ車が二台残っていた。


今日も全部は届かなかった。


それでも昨日よりは少ない。


帰宅すると、集合住宅の入口に人がいた。


管理人。

藤村佳代。

美咲。


三人とも駐車場を見ている。


黒瀬の車が、エントランスから離れた端に停まっていた。


運転席に黒瀬がいる。


「何してるの?」


美咲が振り向く。


「帰ってきたんだけど」


「うん」


「ちょっと待ってもらってる」


直人は車へ近づいた。


黒瀬が窓を数センチ開ける。


「おかえり」


「ただいま。何があった?」


「人助けた」


「誰を?」


「知らん人」


黒瀬が助手席を指す。


透明な袋に、上着が入っている。


袖に茶色い染みがあった。


「血?」


「たぶん」


直人は足を止めた。


「触ったの?」


「手袋してた」


「破れてない?」


「見た。破れてない」


「顔に飛んだ?」


「分からん。たぶんない」


「その人、噛まれてた?」


「見てない」


「熱は?」


「知らん」


質問するたび、分からないが増えた。


黒瀬が窓越しに直人を見る。


「倒れてたから起こしただけだぞ」


「どこで?」


「ホームセンターの近く」


「救急呼んだ?」


「本人が嫌だって」


「なんで」


「知らんよ」


黒瀬の声が少し荒くなる。


「水飲んで、座って、しばらくしたら歩いてった。俺も帰ってきた。それだけ」


直人は袋の中の上着を見る。


昨日までなら。


噛まれていない。

手袋も破れていない。

本人に熱もない。


それで終わったかもしれない。


今日は終われない。


咬傷歴を確認できない症例。

長時間の近接。

体液接触。


ニュースの言葉が頭に並ぶ。


「黒瀬、体温は?」


「三六・四」


「体調は?」


「普通」


「傷は?」


黒瀬が両手を見せる。


「ない」


美咲が後ろから言った。


「上着、袋に入れたのは黒瀬さんだからね」


「分かってる」


「帰ってきて、そのまま入ろうとしたわけじゃないよ」


直人は黒瀬を見る。


「自分で言ったの?」


「血ついてたから」


「誰に?」


「管理人」


管理人が頷いた。


「どうしたらいいか分からなくて」


藤村が腕を組む。


「部屋に帰ってもらえばいいんじゃないですか。熱ないんでしょ」


美咲は答えない。


管理人も答えない。


直人は建物を見る。


エントランス。

エレベーター。

廊下。


黒瀬の部屋まで行くには、共用部を通る。


「階段なら?」


藤村が言う。


「階段だって共用ですよ」


管理人が返す。


「じゃあ、どこにいろっていうの」


黒瀬が窓をもう少し開けた。


「車でいいよ」


「ずっと?」


直人が聞く。


「今日は」


「トイレは?」


「外の使う」


「食事は?」


「持ってきて」


「風呂は?」


「一日くらいいい」


黒瀬は簡単に言う。


簡単だから、直人は逆に困った。


「病院に聞こう」


電話をかける。


繋がるまで十二分。


事情を説明する。


発熱なし。

咬傷なし。

手袋越し。

破損確認なし。

血液らしきものが衣服へ付着。


『現時点では感染の有無を判断できません』


「どうしたらいいですか」


『体調を観察してください。発熱や意識状態の変化があれば、改めて連絡を』


「家に入っていいんですか」


電話の向こうが少し黙る。


『こちらから安全を保証することはできません』


「入らない方がいい?」


『それも、こちらでは判断できません』


電話を切る。


誰も答えをくれなかった。


藤村が言う。


「じゃあ、念のため車でいいんじゃない?」


管理人も頷く。


「一晩なら」


直人は黒瀬を見る。


「どう?」


「さっき言ったろ。いいよ」


「本当に?」


「面倒くさいな」


黒瀬は窓を閉めた。


決まった。


ように見えた。


美咲だけが、その場を動かなかった。


夕食を紙皿へ分ける。


直人が運ぼうとすると、美咲が言った。


「私が行く」


「なんで」


「話したいから」


「窓開けるなら離れて」


「分かってる」


美咲は紙袋を持って出た。


十分ほどして戻る。


「食べてる」


「何か言ってた?」


「寒いって」


直人は窓を見る。


九月の夜。


昼はまだ暑いが、車内で寝るには少し冷える。


「毛布持っていく」


「それも言った」


「じゃあ」


美咲が遮る。


「直人」


「何」


「黒瀬さんに、どうしたいか聞いた?」


「聞いたよ。車でいいって」


「最初に?」


直人は止まった。


最初に聞いたのは、何があったか。


誰を助けたか。

血か。

噛まれたか。

熱はあるか。

傷はあるか。


そのあと、どこにいるかを決めた。


「車でいいって本人が言った」


「みんなが困ってるの見てからね」


直人は返せなかった。


美咲は責める声ではなかった。


「黒瀬さん、助けた人のこと気にしてたよ」


「その人?」


「ちゃんと帰れたかなって」


直人は駐車場を見る。


自分は一度も聞かなかった。


黒瀬に付いた血のことばかり聞いた。


血がどこから来たのかは聞いた。


その血を流した人が、今どうしているかは聞かなかった。


午後十時。


毛布と水を持って駐車場へ行く。


黒瀬は運転席を倒していた。


窓を少し開ける。


「ありがと」


直人は毛布をボンネットへ置いた。


「さっきの人」


「何」


「心配?」


黒瀬が少し黙る。


「まあ」


「連絡先は?」


「知らん」


「名前は?」


「聞いてない」


直人は笑いそうになった。


「何」


「いや。僕、黒瀬のこと質問しすぎたなって」


「今さら?」


「うん」


黒瀬も少し笑った。


直人は車から二歩離れた。


「部屋、戻りたい?」


黒瀬はすぐには答えなかった。


「そりゃ戻りたいよ」


初めて、そう言った。


「でも今はいい」


「なんで」


「俺が逆なら嫌だから」


「逆?」


「知らん血つけて帰ってきたやつが、エレベーター乗るの」


黒瀬は毛布を取る。


「一晩くらい待つ」


直人は頷いた。


今度は、それ以上質問しなかった。


建物へ戻る。


自動ドアの向こうから、駐車場の車が見える。


黒瀬は外にいる。


感染しているからではない。


感染していないと言い切れないから。


その差は大きい。


けれど、ドア一枚を挟めば、見た目には同じだった。


外から来た人を助けた黒瀬が、今度は自分の家の外にいる。


直人はその光景を、簡単に正しいとは思えなかった。

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