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第13話 中に入れない


午前五時十二分。


スマートフォンが鳴った。


直人は一度、止めた。


また鳴る。


美咲も目を覚ました。


「誰?」


画面には黒瀬の名前。


直人は起き上がった。


「もしもし」


『悪い』


声が低い。


「どうした?」


『熱出た』


直人はベッドから降りる。


「何度」


『三八・二』


眠気が消えた。


「他は?」


『だるい。頭痛い』


「息は?」


『普通』


「意識は?」


『これ喋ってんの誰だよ』


いつもの返しだった。


少しだけ安心してしまう。


「車から出ないで」


『出てない』


「病院に電話する」


電話を切る。


昨日と同じ窓口へかけた。


繋がらない。


もう一度。


話し中。


三度目で繋がった。


黒瀬の状態を伝える。


昨日、血液らしきものが衣服へ付着したこと。

手袋に破損は見つからなかったこと。

咬傷はないこと。

今朝、三十八度二分。


『現在、感染疑いの受け入れ先を調整しています』


「連れていけばいいですか」


『直接来院しないでください』


「じゃあ、どこに」


『自宅で他者との接触を避けて待機してください』


直人は窓の外を見る。


駐車場。


黒瀬の車。


「集合住宅です。昨日から車にいます」


電話の向こうが止まる。


『個室へ移動できますか』


「部屋はあります。でも共用部を通ります」


『移動時の安全性について、こちらから保証はできません』


昨日と同じ言葉だった。


「いつ受け入れできます?」


『分かりません』


「今日中?」


『現時点ではお答えできません』


電話を切る。


美咲が着替えていた。


「どうだった?」


「病院はまだ無理」


「部屋に戻す?」


直人は答えなかった。


六時。


エントランスに管理人と藤村佳代が来た。


黒瀬は車から降りない。


窓越しに話す。


管理人が言った。


「部屋まで誰にも会わずに行ければ」


藤村が首を振る。


「エレベーター使うんですよね」


「階段なら」


「階段も誰か使います」


「時間決めて封鎖するとか」


「そのあと消毒は?」


答えが止まる。


黒瀬が窓を少し開けた。


「もういいって」


直人が近づく。


「何が」


「知り合いの倉庫、空いてる」


「倉庫?」


「前に仕事で使ってたとこ。外から直接入れる。水道とトイレある」


「勝手に使えるの?」


「今電話した」


「感染の可能性、言った?」


黒瀬の眉が動く。


「言ったよ」


「相手は?」


「来ないなら使っていいって」


藤村がすぐ言った。


「そこがいいんじゃない?」


管理人も頷く。


「こちらよりは」


直人は二人を見る。


こちらよりは。


その言葉が妙に残った。


「運転できる?」


黒瀬に聞く。


「できる」


「熱あるんだよ」


「十分くらい」


「途中で悪くなったら?」


「止まる」


「僕が送る」


「お前も乗ったら意味ないだろ」


正しい。


直人は言葉を失う。


美咲が遅れて外へ出てきた。


「どうなった?」


事情を説明する。


美咲は黒瀬の車の前まで行った。


距離を取って立つ。


「黒瀬さん」


「何」


「ここにいたいなら、そう言っていいからね」


藤村が美咲を見る。


管理人も黙る。


黒瀬は窓の向こうで、美咲を見た。


しばらくして言う。


「部屋で寝たいよ」


誰も返さなかった。


「そりゃ自分の布団のほうがいい」


黒瀬は続けた。


「でも、今入って何かあったら面倒だろ」


美咲が聞く。


「黒瀬さんが、じゃなくて?」


「何が」


「みんなが嫌だから、じゃなくて。黒瀬さん自身が倉庫へ行きたい?」


黒瀬は額をハンドルへ軽く当てた。


「分かんねえよ」


初めて、そう言った。


直人は建物を見上げた。


窓が並んでいる。


子どものいる部屋。

高齢者のいる部屋。

昨日まで発熱者がいた部屋。


黒瀬を中へ戻して、何も起きないかもしれない。


戻して、何か起きるかもしれない。


外へ出して、黒瀬が悪化するかもしれない。


どれにも保証はない。


「僕は」


声が出にくかった。


「今は、中に入れないほうがいいと思う」


黒瀬は顔を上げた。


「うん」


「感染してるって決めたわけじゃない」


「分かってる」


「でも」


「いいよ」


黒瀬が遮った。


それ以上、直人は説明しなかった。


午前六時三十八分。


黒瀬の車が駐車場を出た。


美咲が道路まで見送った。


直人はエントランスに残った。


車の音が聞こえなくなる。


藤村が息を吐く。


「これで、とりあえず安心ですね」


直人は返事をしなかった。


午前八時。


会社へ休む連絡を入れた。


主任は理由を聞いて、すぐ了承した。


航平からも体温が届く。


《三六・八》


《体調は?》


《普通》


直人は黒瀬へ送る。


《着いた?》


十分後。


《着いた》


続けて写真。


シャッターの半分開いた倉庫。

古い事務机。

折り畳み椅子。

隅に流し台。


《布団ない》


直人は思わず笑った。


《持っていけない》


《知ってる》


《何か必要?》


少しして返る。


《寝るもん》


直人は管理人へ相談した。


住民の一人が、使っていないキャンプ用マットを持っていた。


倉庫の知人と連絡を取り、入口前へ置いてもらうことになった。


黒瀬へ住所を送る。


自分たちで追い出した人へ、直接会わずに寝床を届ける。


直人は、その形を何と呼べばいいのか分からなかった。


昼。


黒瀬は三十八度四分。


意識は清明。


食欲はない。


病院はまだ受け入れ不可。


午後三時。


三十八度一分。


水は飲めている。


夕方。


三十七度九分。


新しい症状はない。


集合住宅でも、新しい発熱者は出なかった。


暴れる人もいない。


噛まれた人もいない。


夜八時。


管理人がエントランスの掲示板へ紙を貼った。


《発熱・感染疑い時の対応について》


直人も確認した。


発熱時は管理人へ連絡。

共用部の利用を避ける。

医療機関の指示を仰ぐ。


その下に、空白があった。


建物へ戻れない場合。


何も書いていない。


黒瀬の倉庫は、黒瀬個人の知人が貸した場所だ。


次の人にも使えるわけではない。


直人はペンを持った。


書けなかった。


今日の判断は、今日だけ成立した。


藤村が隣で言う。


「でも、結果的にはよかったんじゃない?」


「何がです?」


「黒瀬さん、外に出てもらって。こっちは誰も熱出してないし」


直人は掲示板を見る。


確かに。


今日だけを見れば、そうだった。


黒瀬は外にいる。


中では何も起きていない。


それは事実だった。


直人はペンを置いた。


正しかったかどうかは、まだ書かなかった。

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