第14話 中にいた人
午前六時十一分。
直人は目覚ましより先に起きた。
最初に黒瀬へメッセージを送る。
《体温は?》
返事はすぐ来た。
《三七・六》
《体調》
《昨日よりマシ》
少し息を吐く。
次に航平。
昨日までなら、向こうから届いていた。
今日は来ていない。
《航平さん、体温どうですか》
既読にならない。
六時二十八分。
電話した。
四回目で繋がる。
『……もしもし』
声が掠れていた。
「航平さん?」
『うん』
「熱あります?」
『今、測る』
布団が擦れる音。
しばらくして、小さな電子音。
『三八・三』
直人は立ち上がった。
「他は?」
『だるい。喉痛い』
「意識は?」
『それ黒瀬にも聞いた?』
「聞きました」
『じゃあ俺も意識ある』
笑い声のあと、咳。
直人は昨日の休憩室を思い出した。
航平が自宅待機になる前。
休憩室。
弁当。
マスクを外していた。
自分も。
「昨日、休憩室で一緒にいましたよね」
『食ったな』
「誰がいました?」
『相沢と、俺と……田辺さん途中で来た。主任もコーヒー飲んでたかな』
一人ずつ、顔が浮かぶ。
「会社に連絡してください」
『もうする』
「病院にも」
『分かってる』
電話を切る。
美咲が台所から顔を出した。
「どうしたの」
「航平さん、熱出た」
手が止まる。
「直人、一緒にいたよね」
「うん」
昨日まで、黒瀬は外にいた。
自分は中にいた。
その違いが消えた。
午前七時。
会社から電話。
主任だった。
『今日は来るな』
「はい」
『事務所いったん閉める。昨日いたやつ全員、接触確認』
「配送は?」
『東の拠点へ回す。止められない便だけ向こうで持つ』
「田辺さんは?」
『連絡ついた。今は平熱』
「主任は?」
『俺も平熱』
「航平さんの検査は」
『まだ。病院が捕まらん』
直人は窓から駐車場を見る。
黒瀬の車はない。
自分の車はある。
「主任」
『何』
「僕、家にいていいんですかね」
電話の向こうが黙る。
『家族いるんだろ』
「はい」
『部屋分けられる?』
「完全には無理です」
『じゃあ……会社からは何とも言えん。保健の窓口に聞いてくれ』
また、誰も決められない。
電話を切った。
美咲が言う。
「寝室、直人だけ使えば?」
「トイレは同じ」
「拭けばいい」
「換気は?」
「する」
「子どもは?」
「近づけない」
直人は首を振った。
「黒瀬は入れなかった」
美咲の顔が変わる。
「黒瀬さんは、知らない人の血が服について、その次の日に熱が出た」
「航平さんも熱が出た」
「直人は出てない」
「でも昨日一緒に食べた」
「同じじゃないよ」
「安全とも言えない」
美咲は黙った。
直人は車の鍵を取った。
「どこ行くの」
「駐車場」
「車で待つの?」
「少なくとも今日は」
「昨日、黒瀬さんにそれやらせて、正しかったか分からないって言ってたじゃん」
「だから」
直人は靴を履く。
「自分だけ中にいるのは違う」
美咲が追ってくる。
「それ、黒瀬さんのため?」
直人は止まった。
「何?」
「同じことしないと不公平だから外に出るの?」
「違う」
「じゃあ何」
答えは一つではなかった。
家族へうつしたくない。
黒瀬にした判断を、自分だけ例外にしたくない。
もし感染していたら。
もし感染していなかったら。
どちらも頭にある。
「分からないから」
結局、それしか言えなかった。
午前七時三十五分。
直人は自分の車へ入った。
昨日まで黒瀬が停めていた場所とは少し離れている。
美咲が玄関前から見ていた。
スマートフォンが鳴る。
黒瀬。
《航平、熱出たって?》
《うん》
《お前は》
《平熱》
《じゃあ何してる》
直人は写真を撮った。
車内。
送る。
すぐ電話が来た。
『馬鹿じゃねえの』
「黒瀬に言われたくない」
『俺は熱ある』
「僕は接触した」
『美咲さんは?』
「家」
『子どもは』
「家」
『じゃあお前、どこでトイレ行くんだよ』
「考えてなかった」
黒瀬が電話の向こうで笑った。
咳き込む。
「大丈夫?」
『昨日よりマシだっつったろ』
少し間が空く。
『俺と同じにしなくていいぞ』
「同じにしてるわけじゃない」
『ならいい』
電話が切れた。
午前九時。
会社のグループ連絡が更新された。
事務所閉鎖。
昨日勤務者は自宅待機。
配送は東拠点と協力会社へ移管。
直人がいなくても。
航平がいなくても。
主任が現場に出なくても。
荷物は少しずつ動いている。
一週間前なら、それを安心だと思った。
今日は、別の感じがした。
人が抜けても回る仕組みは必要だ。
でも、その仕組みが回っている横で、人は一人ずつ抜けていく。
午前十一時十六分。
田辺から個別に連絡が来た。
《相沢くん、熱ある?》
《ないです。田辺さんは?》
返事が遅い。
《三七・四》
微妙な数字。
《普段は?》
《三六度台》
《他に症状は》
《だるい》
直人は画面を見たまま動けなかった。
航平。
田辺。
黒瀬。
三人を線で結びたくなる。
けれど黒瀬は会社へ来ていない。
航平と田辺は同じ休憩室にいた。
直人もいた。
主任もいた。
線は一本ではない。
昼過ぎ。
管理人から電話。
『相沢さん、今、車ですか』
「はい」
『奥さんから聞きました』
「何かありました?」
『いえ。ただ……黒瀬さんのときと同じ扱いでいいんでしょうか』
直人はフロントガラス越しに建物を見る。
「同じじゃないです」
『ですよね』
「でも、安全だとも言えないです」
『はい』
どちらも、その先を言えない。
午後二時。
会社からまた通知。
田辺が発熱。
三十八度〇分。
主任は平熱だが倦怠感あり。
事務所は翌日も閉鎖。
直人はシートを倒した。
天井を見る。
昨日、藤村は言った。
黒瀬さんに外へ出てもらって、こっちは誰も熱を出していない。
その言葉は、昨日の夜までは事実だった。
今日、事実ではなくなった。
黒瀬を外へ出した判断が間違いだったとは限らない。
黒瀬を中へ入れていたら、別の危険があったかもしれない。
でも。
黒瀬を外へ出したから、中が安全になった。
それだけは、もう言えなかった。
夕方。
美咲がベランダから手を振った。
直人も車の中から振り返す。
スマートフォンに黒瀬から届く。
《三七・三》
航平から。
《三八・五》
田辺から。
《三八・一》
三つの数字が縦に並んだ。
直人は自分の体温を測る。
三六・六。
平熱。
なのに、今日は自分が外にいる。




