第15話 足りない線
朝、直人は車の窓についた水滴で目を覚ました。
首が痛い。
シートを起こすと、集合住宅の壁が朝日に白く光っていた。
昨日から何度も見ている景色なのに、自分の家には見えなかった。
体温を測る。
三六・五。
喉も痛くない。
咳もない。
元気だった。
それが、帰っていい理由にはならなかった。
航平は三八・二。
田辺は三七・九。
黒瀬は三七・一。
主任は平熱。
会社は今日も閉鎖。
直人はスマートフォンのメモを開いた。
航平。
田辺。
主任。
自分。
昨日同じ休憩室にいた四人。
航平と田辺の横に丸をつける。
自分と主任には何もつけない。
次に黒瀬。
会社との線はない。
倒れていた知らない男。
黒瀬とだけ線で結ぶ。
そこまで書いて、直人は指を止めた。
黒瀬の発熱。
航平の発熱。
田辺の発熱。
同じものなのか。
それすら分からない。
午前七時十九分。
美咲から電話が来た。
『起きてる?』
「うん」
『朝ごはん置くよ』
「ありがとう」
『あと、管理人さんから』
声が少し変わる。
「何?」
『七〇三の人、熱あるって』
直人は建物を見上げた。
「何度」
『三八度くらい。喉も痛いって』
「黒瀬と接触は?」
『たぶんない』
「航平さんは?」
『住んでないでしょ』
「外出は?」
『それを今、管理人さんが聞いてる』
直人はメモへ七〇三と書いた。
黒瀬から線を引こうとして、やめる。
線がない。
午前八時。
もう一件増えた。
二〇六号室。
三七度八分。
倦怠感。
七〇三との接触は分からない。
黒瀬との接触も、本人は覚えていない。
「エレベーターは?」
管理人へ電話で聞いた。
『使ってますよ、みんな』
「何時に?」
『そこまでは……』
「買い物は?」
『二〇六の方は昨日スーパーへ。七〇三の方は一昨日、病院へ行ったそうです』
「どこの?」
『そこまで聞きます?』
直人は黙った。
昨日までなら聞いただろう。
全部繋げれば、入口が見つかると思っていた。
「いや」
言い直す。
「今はいいです」
電話を切った。
メモには人の名前と部屋番号が増えている。
線は増えない。
午前九時半。
美咲が駐車場の端へ朝食を置いた。
おにぎり二つ。
ペットボトル。
紙袋。
直人が取りに行く。
美咲は十メートルほど離れていた。
「子どもは?」
「テレビ見てる」
「熱ない?」
「ない」
「美咲は?」
「ない」
直人は袋を持ち上げた。
「七〇三と二〇六、何か共通点ないかな」
美咲が眉を寄せる。
「またやってるの?」
「何が」
「線引くやつ」
「だって、どこから来たか分かれば」
「分かったらどうするの?」
直人は答える。
「接触した人を避ける」
「接触って、どこまで?」
「近くで話したとか」
「エレベーター一緒だったら?」
「分からない」
「同じスーパーにいたら?」
「分からない」
「換気悪いところに前の人がいたら?」
直人は黙る。
美咲が続ける。
「直人が知らない線、いっぱいあるんじゃない?」
「だから調べるんだよ」
「全部?」
その一言で止まった。
全部は無理だ。
誰が何時にエレベーターへ乗ったか。
誰がどの棚の前に立ったか。
誰が誰のあとにドアノブへ触れたか。
誰がどの部屋で何分話したか。
記録されていない。
そして、何を記録すべきだったかも、まだ分かっていない。
「でも何もしないわけにはいかない」
「うん」
美咲は否定しなかった。
「だから、今できることやろうよ」
「今できること?」
「熱ある人が困ってないか確認する。共用部で会わないようにする。食べ物いる人に届ける。病院に連絡する」
「感染経路は?」
「それも必要。でも、直人一人で今日中に解けないでしょ」
直人は紙袋を見る。
朝食が冷め始めていた。
午前十一時。
管理人からまた電話。
今度は買い出しの話だった。
「昨日まで黒瀬さんが車を出してくれてたでしょう」
「はい」
「今日は相沢さんも車から出られないし」
「僕の車、使います?」
「相沢さんが触ってるでしょう」
「あ」
言われて気づく。
藤村佳代の車は小さく、荷物を多く積めない。
もう一台、住民の車はあるが、所有者が二〇六号室だった。
昨日まで、車はあった。
運転できる人もいた。
今日は、使える車が減った。
黒瀬を建物から離したことが、初めて生活の形として返ってきた。
安全のために減らした接触が、支援の手も減らしている。
「スーパー、歩いて行けるよ」
美咲が電話の向こうで言った。
「重いものは?」
「今日は必要な分だけ」
「水とか」
「水道出てる」
「米は?」
「まだある」
直人は黙った。
全部を一度に満たさなくても、今日一日は回る。
午後一時。
七〇三の熱は三八・四。
二〇六は三八・一。
新しく四〇八号室から、喉の違和感の申告。
発熱はない。
管理人が紙へ書いている。
直人も車内でメモへ書く。
七〇三。
二〇六。
四〇八。
階も違う。
生活時間も違う。
線は引けない。
直人は画面を閉じた。
代わりに別の一覧を作った。
七〇三 水あり/食事あり/一人暮らし
二〇六 家族あり/食事あり/解熱剤少ない
四〇八 発熱なし/体温継続確認
感染経路ではない。
今、必要なもの。
書いてみると、さっきより手が動いた。
午後四時。
会社から連絡。
主任も三七度九分。
事務所勤務者の発熱は三人になった。
配送の一部は翌日へ繰り越し。
協力会社も人員不足。
社会の側でも、同じことが起きている。
人が抜ける。
代わりを入れる。
その代わりも抜ける。
それでも、完全には止まらない。
夕方。
黒瀬から電話が来た。
『暇』
「熱は?」
『三七・〇』
「食べた?」
『カップ麺』
「水ある?」
『ある』
直人は少し迷ってから言った。
「こっち、発熱増えた」
『何人』
「七〇三と二〇六。四〇八も喉がおかしいって」
黒瀬は黙った。
『俺じゃないってこと?』
「分からない」
『だよな』
「黒瀬を外に出したから安全になったわけじゃなかった」
『それも分からんだろ』
直人は止まる。
黒瀬が続ける。
『俺が中にいたら、もっと増えてたかもしれん』
「うん」
『だったら、昨日の答え合わせしても意味ないだろ』
直人は車のダッシュボードに置いたメモを見る。
人と人を結ぼうとした線。
途中で止まっている。
「そうかも」
『あと俺、そろそろ帰りたい』
「熱下がっただけじゃ」
『分かってるよ』
声に苛立ちが混じる。
「ごめん」
『謝るな。考えろ』
電話が切れた。
夜七時。
美咲から夕食が届く。
今日はおにぎりではなく、密閉容器に入った焼きそばだった。
容器を取った直後、建物の上から何かが落ちる音がした。
硬いものが床へぶつかったような音。
直人が見上げる。
七階の窓が一つ開いている。
すぐに管理人から電話。
『相沢さん』
声が震えていた。
「どうしました」
『七〇三の方が、さっきから返事がおかしくて』
直人は立ち上がる。
『電話には出るんです。でも、質問に答えないんです』
「意識は?」
『分かりません。それと』
向こうで物音。
『玄関を開けようとしてます』
直人は車のドアを開けた。
「鍵は?」
『内側からです。今、廊下に誰も出ないよう連絡してます』
七階。
発熱。
反応がおかしい。
玄関へ向かっている。
直人は一瞬、自分が外にいる理由を思い出した。
接触者だから。
建物へ入らないために。
そのまま走った。
感染経路の線は、まだ一本も完成していなかった。




