第16話 扉の内側
自動ドアが開かなかった。
直人はガラスの前で一度止まり、脇のインターホンを押した。
管理人の声が返る。
『相沢さん?』
「開けてください」
『でも相沢さん、接触者で』
「七〇三、今どうなってます」
『まだ玄関です。ドアを叩いてます』
「他の人は?」
『七階には出ないよう連絡しました』
「開けて」
数秒後、錠が鳴った。
直人は中へ入った。
昨日まで、ここへ入らないために車で寝ていた。
今は走っている。
管理人室の前で美咲が待っていた。
「マスク」
差し出される。
「手袋も」
直人は受け取った。
「子どもは?」
「部屋。鍵かけた」
「出ないように」
「分かってる」
美咲は直人の腕を掴んだ。
「何するつもり?」
「まだ分からない」
「じゃあ上がらないで」
「七〇三が出たら?」
「管理人さんが鍵を」
「部屋の内側だよ」
美咲の手が離れた。
エレベーターは使わなかった。
階段を上る。
二階。
三階。
四階で息が切れた。
車で二日ほとんど動いていない。
五階。
六階。
七階の踊り場で止まる。
廊下は静かだった。
誰もいない。
七〇三号室だけ、音がする。
ガン。
ガン。
一定ではない。
ドアノブが動く。
直人は階段から廊下へ出なかった。
スマートフォンを耳へ当てる。
管理人と通話したままだった。
「七〇三の名前は?」
『宮原さんです。宮原隆さん』
「一人暮らし?」
『はい』
「家族の連絡先」
『弟さんがあります』
「電話してください」
『今?』
「今」
ドアがまた鳴る。
ガン。
「宮原さん」
直人は廊下の端から呼んだ。
音が止まった。
「宮原さん、相沢です。聞こえますか」
返事はない。
数秒後。
「……あ」
声。
「宮原さん?」
「……けて」
小さい。
「何ですか」
「開けて」
直人は動かなかった。
「どうしました」
「開けて」
同じ言葉。
「水、飲めますか」
「開けて」
「今どこにいます?」
「開けて」
会話にならない。
ドアノブがゆっくり下がる。
鍵が外れる音がした。
直人の足が一歩下がった。
ドアが数センチ開く。
隙間から手が出た。
素手。
指が床を探る。
「宮原さん、止まって」
手は止まらない。
ドアがさらに開く。
直人は階段側へ下がる。
そのとき、向かいの七〇四号室の扉が少し動いた。
「開けないで!」
直人が叫ぶ。
扉が閉まった。
七〇三から宮原が出てきた。
パジャマ。
裸足。
顔が赤い。
右の頬に、乾いた血のようなものがついている。
直人は息を止めた。
血。
どこから。
宮原自身のものか。
別の誰かのものか。
分からない。
宮原は直人を見た。
焦点が合っていない。
「宮原さん」
一歩。
こちらへ来る。
「そこで止まって」
もう一歩。
足を引きずっている。
直人は階段を一段下りた。
逃げればいい。
自分だけなら。
でも、七階には人がいる。
扉の内側に。
六階にも。
五階にも。
「宮原さん、部屋へ戻れますか」
宮原の口が動く。
「……そと」
初めて違う言葉だった。
「外?」
「そと」
「外に行きたい?」
宮原は答えない。
また一歩。
直人は階段を下がる。
宮原もついてくる。
その瞬間、直人は気づいた。
部屋へ戻そうとしていた。
自分が安全だと思う場所へ。
でも宮原は、外へ行こうとしている。
理由は分からない。
正常な判断なのかも分からない。
従っていい要求かも分からない。
それでも、無理に部屋へ押し戻すことはできない。
「管理人さん」
電話へ言う。
『はい』
「一階、誰も出さないでください」
『宮原さんは?』
「階段を下りてきます」
『下ろすんですか?』
直人は宮原を見る。
宮原は手すりを掴んだ。
一段。
足がもつれる。
壁へ肩をぶつける。
「転びそうです」
『救急は?』
「呼んで」
『感染疑いって言います?』
「発熱と意識がおかしいことをそのまま」
直人は二段下がる。
宮原が一段下りる。
追いかけているようにも見える。
誘導しているようにも見える。
どちらでもなかった。
直人は距離を保ったまま、宮原が自分で下りる場所を空けていた。
六階。
五階。
四階で宮原が座り込んだ。
「宮原さん」
返事がない。
直人は近づかなかった。
胸は動いている。
「聞こえますか」
宮原が顔を上げる。
「……みず」
直人は手元を見る。
何も持っていない。
管理人へ言う。
「未開封の水あります?」
『あります』
「階段の三階に置いて、離れてください」
数分後。
階下で足音。
ペットボトルが置かれる。
直人はそれを取りに行かなかった。
宮原へ指を向ける。
「下に水あります。自分で行けますか」
宮原は動かない。
直人は迷った。
ここで近づけば、渡せる。
でも、自分が倒れれば次が減る。
黒瀬はいない。
発熱者は増えている。
運転できる人も減っている。
助けることと、触れることは同じではない。
「宮原さん」
もう一度呼ぶ。
「水、下です」
宮原の目が階段へ向いた。
ゆっくり立つ。
三階まで下りた。
ボトルを拾う。
蓋を開けるのに時間がかかった。
飲んだ。
半分ほど一気に。
その場に座る。
直人も四階の踊り場へ座った。
上下に一階分の距離。
救急車を待った。
二十分。
三十分。
来ない。
管理人から連絡。
『出動がかなり詰まってるそうです』
「どのくらい?」
『分からないって』
また、分からない。
でも今は、それを埋める質問を続けなかった。
宮原が座っている。
水がある。
他の住民は廊下へ出ていない。
呼吸はしている。
今見るべきものは、それだった。
四十分ほどして、宮原が横になった。
直人は立ち上がる。
「宮原さん?」
返事がない。
胸は動いている。
直人は救急へもう一度連絡した。
今度は反応低下を伝える。
優先度を上げると言われた。
十五分後。
ようやくサイレンが聞こえた。
救急隊員が防護具を着けて入ってくる。
直人は階段をさらに上へ避けた。
宮原は担架へ移された。
そのとき、隊員の一人が頬の血を拭った。
傷は口の内側だった。
転倒か。
噛んだのか。
それ以上は分からない。
宮原は運ばれていった。
午後九時すぎ。
直人はまだ建物の中にいた。
一階へ戻ると、美咲がエントランスの向こうにいる。
「戻る?」
直人は自分の手袋を見る。
宮原には触れていない。
距離も取った。
それでも七階から一階まで、同じ階段にいた。
「車に戻る」
美咲は少しだけ顔を伏せた。
「うん」
直人は自動ドアを出た。
外の空気が冷たかった。
振り返る。
ガラスの向こうに美咲がいる。
さっきまで直人は、外にいる人だった。
危険を中へ持ち込まないために。
今は、中へ入って出てきた人だった。
直人は車へ戻った。
自動ドアが閉まり、ガラスの向こうに美咲が残った。




