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第17話 出る理由


午前四時四十七分。


駐車場の向こうで、車のエンジンがかかった。


直人は目を開けた。


自分の車ではない。


集合住宅の出口へ、一台の軽自動車がゆっくり進んでいく。


助手席にも人がいた。


こんな時間に。


直人はスマートフォンを見る。


管理人から、深夜に一件だけ連絡が入っていた。


《二〇六号室、家族で外へ出るそうです》


時計を見る。


今の車だ。


直人はドアを開けた。


「待って!」


声は届かなかった。


車は道路へ出ていった。


追えない。


追う理由も、まだ分からない。


午前六時。


管理人に電話した。


「二〇六、どこへ行ったんですか」


『奥さんの実家だそうです』


「熱ある人いましたよね」


『ご主人です。昨日は三八・一』


「実家に言ってあるんですか」


『そこまでは』


直人は眉間を押さえた。


「止めなかったんですか」


『止める権限、私にあります?』


言葉が詰まる。


「でも」


『部屋にいろ、と言って、もし悪化したら?』


「病院へ」


『病院、昨日も受け入れてないでしょう』


直人は黙った。


管理人が続ける。


『奥さんが言ってました。ここにいても、子どもを見てくれる人がいないって』


「子ども?」


『二人です。小学生と、まだ小さい子』


直人は昨日の一覧を思い出す。


二〇六。

家族あり。

食事あり。

解熱剤少ない。


子どもの年齢は書いていなかった。


誰が世話をしているかも。


必要なものを見たつもりだった。


足りていなかった。


午前七時半。


美咲が駐車場へ来た。


今日は食事を置いて離れなかった。


十メートルほど先に立つ。


「二〇六、出たって」


「見た」


「止めたかった?」


「感染してたら広げるかもしれない」


「ここにいたら?」


「ここでも広がるかもしれない」


「じゃあ、どっち?」


直人は答えられなかった。


美咲が紙袋を地面へ置く。


「昨日の宮原さん、外に出たがってたんでしょ」


「うん」


「二〇六の人も外に出た」


「同じじゃない」


「分かってる」


美咲はすぐに言った。


「だから、出る理由を見ないと分からないんじゃない?」


直人は二〇六の窓を見る。


カーテンが開いている。


部屋の中は暗い。


誰もいない。


午前九時。


七〇三の宮原について、管理人へ病院から連絡があった。


意識は戻った。


高熱と脱水。


詳しい原因は検査中。


それだけだった。


異常行動の理由も分からない。


感染症かどうかも確定していない。


生きている。


その情報だけで、直人は肩の力が少し抜けた。


黒瀬からも連絡。


《三六・八》


平熱に戻った。


《帰れる?》


直人はすぐ返せなかった。


昨日なら、熱が下がっただけでは駄目だと言った。


今日も、その考え自体は変わらない。


ただ、いつならいいのか。


誰が決めるのか。


病院は検査できていない。


行政の窓口も繋がりにくい。


倉庫をいつまでも借りられるとも限らない。


《倉庫いつまで使える?》


《今日まで》


直人は画面を見た。


それは昨日まで知らなかった条件だった。


《次に行ける場所ある?》


《ない》


午前十時。


直人は管理人、美咲、藤村とエントランス越しに話した。


黒瀬を戻すか。


管理人が腕を組む。


「私は怖いですよ」


藤村も言う。


「熱が下がったって、一日だけですよね」


美咲は直人を見た。


「直人は?」


「怖い」


自分で言って、少し驚いた。


安全だから戻すのではない。


安全だと証明できたわけでもない。


「でも、行く場所がないから戻す、でいいのかな」


藤村が眉を寄せる。


「それで感染したら?」


「分からないです」


「じゃあ駄目でしょう」


「じゃあ、黒瀬はどこへ行けばいいですか」


藤村は黙る。


直人は続けなかった。


答えを迫りたいわけではない。


自分にもない。


管理人が言った。


「部屋までの経路を空けることはできます」


美咲が続く。


「戻ったら部屋から出ない」


「食べ物は前に置ける」


「ゴミは?」


「袋を二重にして、時間決める」


藤村が顔をしかめる。


「それで安全なんですか」


直人は首を振った。


「安全とは言えないです」


「じゃあ」


「でも、黒瀬を外に置けば安全とも言えない」


沈黙した。


午前十一時二十分。


黒瀬の車が戻ってきた。


倉庫から直接。


駐車場へ停める。


窓が開く。


「ただいま」


管理人が苦い顔をした。


「まだ決まってませんよ」


「だから車で待つ」


黒瀬はシートを倒した。


「今日中に決めてくれ」


直人は車の横まで行かない。


少し離れて立つ。


「黒瀬」


「何」


「帰りたい?」


「帰りたい」


「理由は?」


黒瀬が窓から顔を出す。


「理由いる?」


直人は一瞬止まる。


「いる」


「自分の家だから」


「それだけ?」


「それで足りるだろ」


直人は黙った。


黒瀬は続けた。


「風呂入りたい。布団で寝たい。冷蔵庫のもん腐る。着替えもうない。倉庫も今日まで」


理由は一つではなかった。


感染とは関係のない理由ばかりだった。


でも、生きることには関係している。


午後。


二〇六から管理人へ電話が来た。


実家には着いた。


祖父母とは部屋を分けた。


子どもは祖母が見る。


発熱している父親は離れた部屋にいる。


正しいかどうかは分からない。


ただ、出ていった理由は分かった。


そこには、ここになかったものがあった。


子どもを見てくれる人。


夕方。


住民で短い相談をした。


全員は集まらない。


電話とメッセージを使った。


黒瀬を部屋へ戻すことになった。


反対はあった。


賛成も、積極的なものではなかった。


条件を決めた。


共用部を空ける。

マスク。

部屋へ直行。

当面は外へ出ない。

体温と症状を管理人へ伝える。

悪化したら救急へ連絡。


完全な安全策ではない。


今できる範囲だった。


午後六時。


黒瀬が車から降りた。


直人は駐車場から見ている。


黒瀬は小さな鞄を持っていた。


エントランスへ向かう。


途中で直人を見る。


「お前は?」


「まだ車」


「熱ないんだろ」


「ない」


「じゃあ帰れよ」


「僕は昨日、宮原さんと同じ階段にいた」


黒瀬が鼻で息を吐く。


「理由あるなら好きにしろ」


そのまま建物へ入った。


直人は少し笑った。


夜。


美咲から電話。


「黒瀬さん、部屋入ったよ」


「うん」


「怖い?」


「怖い」


「後悔してる?」


直人は考えた。


「まだ分からない」


「そっか」


「でも」


駐車場から、自分たちの部屋の明かりを見る。


「外に出す理由だけじゃなくて、戻る理由も見ないと駄目だった」


美咲は何も言わなかった。


直人も、それ以上まとめなかった。


二〇六は出ていった。


黒瀬は戻った。


宮原は病院へ運ばれた。


直人はまだ車にいる。


同じ危険の中でも、人が動く方向は違った。


危険だけでは、その理由までは決められなかった。

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