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第18話 行けない場所


朝七時。


直人は車の中で歯を磨いた。


水を少しだけ使い、紙コップへ吐く。


三日目になると、車内の物の位置が決まっていた。


水は助手席の足元。

着替えは後部座席。

ゴミ袋はドアポケット。

体温計はダッシュボード。


住める。


そう思えてしまう程度には、慣れていた。


体温は三六・四。


美咲も子どもも平熱。

黒瀬は三六・七。

航平は三七・九。

田辺は三七・六。

主任は三八・〇。


会社は閉鎖継続。


直人は主任へ電話した。


「今日も休みですよね」


『来るなよ』


「分かってます」


『絶対来るなよ。入口閉めてあるからな』


直人は少し笑った。


「荷物は?」


『東も限界。今日はかなり止まる』


「僕、何かできます?」


『寝てろ』


電話が切れた。


会社には行けない。


行っても仕事がないのではない。


仕事はある。


人が行けない。


午前八時半。


管理人から連絡が来た。


七〇三の宮原は入院継続。

二〇六は実家。

四〇八は三七・八まで上がった。


そして、一階の高齢夫婦から薬が足りないと相談があった。


「何の薬です?」


『血圧の薬だそうです』


「いつまで」


『今日の夜まで』


直人は病院の名前を聞いた。


かかりつけは駅前。


電話する。


繋がった。


事情を話す。


『現在、定期受診の方も来院を控えていただいています』


「薬だけ受け取れませんか」


『処方について医師へ確認します』


保留。


長い。


『ご本人かご家族が薬局へ行くことは可能ですか』


直人は一階の夫婦を思い浮かべる。


夫は足が悪い。

妻は最近ほとんど外へ出ない。


「難しいです」


『代理の方は』


直人は自分の車内を見る。


「僕は接触者で、今、自主的に家から離れてます」


また保留。


結局、処方箋を近所の薬局へ送れることになった。


ただし。


薬局まで取りに行く人がいる。


午前十時。


美咲が言った。


「私が行く」


直人はすぐ首を振った。


「子どもどうするの」


「連れていかない。部屋に」


「一人にできないでしょ」


「じゃあ直人が見る?」


二人とも黙った。


直人は部屋へ戻っていない。

美咲は子どもと一緒にいる。


たった一人が薬局へ行くために、別の一人が子どもを見る必要がある。


その一人がいない。


昨日、二〇六が出ていった理由と同じ形だった。


人が足りないのではない。


行ける人が足りない。


黒瀬へ電話した。


『無理』


声は元気だった。


「まだ何も言ってない」


『薬取りに行けだろ』


「なんで分かったの」


『管理人から来た』


「熱下がってるよね」


『戻る条件、当面外出ない、だろ』


直人は黙る。


自分たちで決めた条件だった。


「そうだった」


『俺が破ったら次から誰も守らんぞ』


「うん」


『藤村さんは?』


「聞いてみる」


藤村佳代は行けなかった。


母親の介護で、午前中に訪問看護が来る予定だった。


時間をずらせない。


管理人も建物を離れられない。


一人ずつ理由があった。


誰も怠けていない。


それでも薬は薬局にある。


ここにはない。


午前十一時四十分。


田辺から電話。


『相沢くん、暇?』


「暇ですけど」


『俺も』


声は少し鼻にかかっている。


「熱は?」


『三七・五。下がってきた』


「薬局行けます?」


『何の話だよ』


直人は笑った。


事情を話す。


田辺は少し考えた。


『場所どこ』


「駅前です」


『俺んち反対側』


「ですよね」


『ていうか俺、発熱者だぞ』


「ですよね」


二人で笑った。


笑ってから、直人は変な気分になった。


以前なら、場所を知れば動けた。


車があれば行けた。


店が開いていれば買えた。


今は全部ある。


道路もある。

車もある。

薬局も開いている。

薬もある。


それでも届かない。


午後零時半。


管理人から連絡。


「薬局が、配達できるかもしれないそうです」


「本当ですか」


「ただ、今日中になるか分からないって」


「夜の分が」


「はい」


直人はスマートフォンの地図を開いた。


薬局まで一・八キロ。


近い。


徒歩二十分少し。


画面の上では。


直人には遠かった。


午後二時。


知らない番号から電話が来た。


『相沢さんですか』


「はい」


『二〇六の遠山です』


出ていった家族の父親だった。


声は弱い。


「体調どうですか」


『熱はまだあります。あの、管理人さんから薬の話聞いて』


「はい」


『うちの親父、そっちの近くにいるんですよ』


直人は意味が分からなかった。


「実家じゃなくて?」


『実家は嫁のほうです。俺の親父は一人暮らしで、駅の向こう』


「それが?」


『薬局、取りに行けるって』


直人は立ち上がった。


「大丈夫なんですか」


『元気です。俺とは二週間会ってない』


「でも高齢じゃ」


『六十二』


高齢と言うには微妙だった。


「本人がいいって?」


『もう薬局に電話したらしいです』


直人は言葉を失った。


二〇六は、ここから出ていった。


昨日、自分は感染を広げるかもしれないと思った。


その家族が今、ここへ薬を戻そうとしている。


午後三時二十分。


管理人から写真が届いた。


エントランスの外。


小さな紙袋。


薬局の名前。


遠山の父親は管理人へ手渡さず、指定した場所へ置いて帰った。


一階の夫婦へは管理人が届けた。


薬は間に合った。


直人は車の中で写真を何度も見た。


助けた人の顔は知らない。


会ってもいない。


夕方。


美咲が子どもをベランダへ出した。


ガラス越しではなく、今日は上から手を振る。


直人も振り返す。


「いつ帰るのー」


子どもの声が駐車場まで落ちてきた。


直人は答えられなかった。


美咲が代わりに言う。


「もうちょっとー」


もうちょっとが、何日なのかは誰も知らない。


夜七時。


スマートフォンに通知。


近所のスーパーが翌日から営業時間を短縮する。


駅前のドラッグストアは臨時休業。


別のコンビニは従業員不足で夜間閉店。


地図の上には、店が残っている。


場所も消えていない。


でも、行ける場所は減っていた。


直人は地図を閉じた。


その直後、美咲から写真が届いた。


夕暮れの道路。


少し先の交差点。


見覚えのない看板が、小さく写っている。


《これ、前からあった?》


直人は写真を拡大した。


暗い建物。


明かりのついた窓。


看板には、こう書いてあった。


PANDEMONIUM BURGER


その下に、小さく。


営業中。


直人はしばらく画面を見ていた。


行ける場所が減っていく町で、そこだけが開いていた。

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