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第8話 余裕


午前六時二十五分。


直人が事務所へ入ると、ホワイトボードの前に誰もいなかった。


昨日までは、朝から人が集まっていた。


どこへ行く。

何を先にする。

誰が決める。


今日は違う。


机の上に、受け渡し表が置いてある。


半分以上が埋まっていた。


病院側の受け取り場所。

スーパー側の集約先。

別会社へ渡す地点。


直人が決めていない欄ばかりだ。


「楽になった?」


主任が聞いた。


「少し」


「じゃ、コーヒー飲めるな」


昨日は冷えたまま残った。


今日は湯気があるうちに半分飲めた。


七時。


一台目が出る。


二台目。


三台目。


誰も直人へ確認しに来ない。


表を見て、自分の担当欄を埋め、出ていく。


柴崎が伝票を持って通り過ぎた。


「行ってくる」


「どこです?」


「西町で渡して、帰りに北倉庫」


直人は表を見る。


確かに書いてある。


「了解です」


柴崎が笑う。


「聞かなくてもいいんだぞ」


「確認しただけです」


「それを聞くって言うんだよ」


ドアが閉まる。


直人は表へ目を戻した。


問題はない。


むしろ、昨日よりよく回っている。


午前八時十四分。


一台が戻ってきた。


早すぎる。


運転手が事務所へ入ってくる。


「すみません、帰ります」


顔色が悪い。


「どうしました?」


「嫁が熱出したって。子どもも家にいるんで」


主任がすぐに言った。


「行け。車だけ置いてって」


男は頭を下げて出ていった。


直人は表の名前を消す。


車はある。


運転する人が一人減った。


別の人を入れる。


まだ回る。


九時三十分。


今度は別の運転手から電話。


『体温計って会社にある?』


「救急箱に一本あったと思います」


『朝からちょっとだるくて』


「今どこです?」


場所を聞く。


近い。


「戻ってください」


『でも一件残ってる』


「別に回します」


『熱あるか分からんぞ』


「分からないから戻ってください」


電話を切る。


二人減った。


表を書き換える。


受け渡し場所は決まっている。


荷物もある。


車もある。


ただ、人だけが予定どおりではない。


午前十一時。


配送はまだ遅れていなかった。


直人は机の端に、新しい欄を作った。


出勤。

体調。

家族。

代替可否。


主任が覗く。


「また増やすのか」


「朝の時点で分かるものだけです」


「毎日聞く?」


「はい」


「面倒だな」


「途中で抜けるよりは」


主任は少し考えた。


「まあ、それはそうか」


昼。


集合住宅のグループに、美咲からメッセージが来た。


《体温計余ってる人いますか》


直人はスマートフォンを見る。


すぐに返信が三つついた。


《うち一個》

《古いのでよければ》

《子ども用なら》


そのあと、美咲から個別に来た。


《管理人さんのが壊れた》


《何に使う?》


《昨日の紙。熱ある人の確認》


直人は少し考えた。


《会社帰りに買う》


すぐ返事。


《売ってないと思う》


直人は通販サイトを開いた。


在庫なし。


別の店。


在庫なし。


昨日までは、必要なものを見つければ運べた。


今日は、もの自体がない。


《借りるしかないか》


《もう借りた》


直人は画面を見た。


《誰から?》


《三浦さん》


赤ちゃんのいる家だった。


《大丈夫なの?》


《夜には返す》


直人は返信しかけた。


やめた。


美咲が決めた。

三浦も決めた。


それで今は動いている。


午後三時。


会社の車は六台動いていた。


一週間前なら少ない。


今日は十分に見えた。


受け渡し方式に変えたことで、一台が回れる範囲が広がっている。


直人は数字を見て、初めて思った。


余裕がある。


そのとき主任が言った。


「明日、管理会社来ないって」


「何の?」


「車両の点検。担当が出勤できないらしい」


直人は駐車場を見る。


六台。


今は動いている。


「いつ来られるんです?」


「未定」


「故障したら?」


「その車は止めるしかないな」


六台という数字が、急に違って見えた。


動いている六台。


明日も動く六台ではない。


夕方。


帰宅すると、黒瀬が一階の換気扇を外していた。


「何してるの」


「管理人室。止まった」


「部品ある?」


「ない」


「じゃあ直らないじゃん」


黒瀬は外した部品を指で回した。


「汚れ。たぶん洗えば動く」


「たぶん?」


「新品にするなら部品いる。今日動かすだけならいらない」


管理人が横で苦笑する。


「もう業者、電話出ないんですよ」


黒瀬は洗面器へ部品を入れた。


「じゃあ俺がやる」


直人はその手元を見る。


黒瀬には、会社の表に載らないものがある。


工具。

知識。

手。


「黒瀬、車あるよね」


「ある」


「動く?」


「昨日は」


直人は思わず笑った。


「それ、今日確認してないってこと?」


「乗ってないからな」


「もし必要になったら使える?」


黒瀬は少し考えた。


「俺が使うなら」


「貸すのは?」


「相手による」


「そこも決めてないのか」


「必要になってからでいいだろ」


換気扇の羽根を布で拭く。


直人はスマートフォンのメモに書いた。


黒瀬。

車一台。

工具。


その下に、消した。


黒瀬が見る。


「何?」


「いや」


車は黒瀬のものだ。

工具も黒瀬のものだ。


使える資産として数えるのは違う気がした。


部屋へ戻ると、美咲が体温計をテーブルに置いた。


「返してきた」


「早いね」


「一人測るだけだったから」


「何度?」


「三十六度九分」


直人は少し安心した。


美咲が冷蔵庫を開ける。


「会社、今日はどうだった?」


「回った」


「よかったね」


「六台で足りた」


美咲は冷蔵庫から麦茶を出した。


「六台動けるの?」


「動いてた」


「人は?」


直人は黙った。


美咲がコップへ注ぐ。


「車が六台あるだけじゃないの」


朝、一人が家族の発熱で帰った。


一人は自分の体調不良で戻った。


点検業者は来ない。


六台は今日の結果であって、明日の能力ではない。


直人は食卓へ座った。


「明日から、朝に確認する」


「何を?」


「人と車。使えるかどうか」


「毎日?」


「毎日」


美咲は麦茶を飲んだ。


「大変だね」


直人は首を振った。


「今まで、確認しなくても同じだと思ってただけかも」


翌朝。


直人のスマートフォンに、会社へ行く前から連絡が入った。


《車一台、使えません》


故障かと思った。


違った。


《持ち主が発熱。鍵を受け渡せません》


直人は画面を見た。


車はある。


昨日と同じ場所に。


燃料もある。


壊れてもいない。


それでも今日は、使えない。


直人は昨日作った欄を開いた。


出勤。

体調。

家族。

代替可否。


車両の横にも一つ足す。


今日、使えるか。

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