第86話 残った百円
三十二日目、午前八時四十七分。
紙コップの中身を、高校生がテーブルへ出した。
昨日のレシート。
一昨日のレシート。
森田の一枚には、まだ書いてある。
《直人100 高校生30 借》
「これ、どうするんです?」
高校生が聞いた。
森田がコーヒーを飲みながら答える。
「返すよ」
「いや、それじゃなくて」
高校生は紙コップの底を指した。
百円玉が一枚入っていた。
◇
「誰の?」
美咲が聞く。
誰も答えない。
高校生が昨日を思い出す。
「夕方、誰かお釣り入れてなかった?」
「入れたっていうか、置いたんじゃない?」
由佳が言う。
「誰が?」
「分かんない」
百円玉は何も言わない。
レシートには対応する記録がない。
直人が手を伸ばしかける。
「じゃあ、とりあえず昨日みたいに誰か足りないときに使えば」
森田が顔を上げた。
「誰の金か分からないのに?」
直人の手が止まった。
◇
午前八時五十三分。
「でも、誰のか分からないなら使えなくない?」
高校生が言う。
「逆じゃない? 誰のか分からないから、みんなのでいいんじゃない?」
美咲が言ってから、自分で首を傾げた。
「……いや、それも違うか」
由佳が百円玉を見る。
「落とし物なら、勝手に使わないでしょ」
「でも紙コップに入ってたんだよ」
「じゃあ、入れた人が寄付したのかも」
「かも、で使う?」
話が一周した。
◇
午前九時二分。
直人が紙を一枚持ってきた。
《百円 持ち主不明》
そう書いて、百円玉の下へ置く。
「これでいいんじゃない」
高校生が言う。
「何が?」
「誰のか分かるまで置いとく」
「ずっと分からなかったら?」
「ずっと置いとく?」
黒瀬が笑った。
「百円の展示物だな」
誰も笑わなかったので、黒瀬もやめた。
◇
午前十時十一分。
客の一人が紙を見た。
「あ、それ俺かも」
全員が顔を上げる。
「昨日、百円入れた?」
「たぶん」
「何で?」
「小銭邪魔だったから」
「じゃあ返す?」
男は少し考えた。
「いや、いらない」
高校生が百円玉を持ち上げる。
「じゃあ、これどうする?」
「好きにしていいよ」
「みんなで使っていい?」
「いいよ」
そこで話が終わりそうになった。
森田が言う。
「『みんな』って誰だ?」
◇
午前十時十四分。
また止まった。
この店に寝泊まりしている人。
今日いる人。
昨日いた人。
たまに来る人。
子ども。
新しく入ってきた人。
百円玉一枚には大きすぎる話だった。
「とりあえず、持ち主がいらないって言った百円」
由佳が言う。
「それ以上にしなくていいんじゃない?」
直人が頷いた。
「使い道が決まるまで置いとく」
「誰か足りないときでも?」
高校生が聞く。
「そのとき、また聞けばいい」
◇
午後零時三分。
昼食の時間になった。
森田は自分の財布から三百八十円を出した。
昨日の二百五十円とは別に、荷物の奥から見つけた硬貨だった。
直人へ百円。
高校生へ三十円。
「返す」
二人が受け取る。
昨日のレシートに、森田が一本線を引いた。
《返済》
借りは消えた。
紙コップの底には、別の百円だけが残った。
◇
午後零時二十一分。
誰もその百円を使わなかった。
共同資金と呼ぶ人もいなかった。
ただ、持ち主が手放した百円として残っている。
昨日は、払えない人が見えた。
今日は、余った金が見えた。
金額は百円。
ポテト一つにも足りない。
それでも、その百円を誰のものとして扱うかは、値段より大きな問題だった。
高校生は紙コップの文字を書き直した。
《レシート》
その横に、小さく別の紙を置く。
《百円 使い道未定》
百円は残った。
まだ、誰の財布にもならなかった。




