第83話 一か月目
三十日目、午前八時十四分。
高校生が壁際の紙を一枚めくった。
「一か月だ」
誰かが顔を上げる。
「今日で?」
「最初の日を一日目にするなら、三十日目」
直人はスマートフォンの日付を見る。
月が変わっていた。
店へ逃げ込んだ日の数字を思い出す。
一か月。
言葉にすると、二十八日より長く感じた。
◇
午前八時二十三分。
洗面台の鏡で、直人は自分の顔を見た。
髭。
伸びた髪。
少し痩せた頬。
服は洗っているが、最初の日から持っているシャツはくたびれていた。
隣で高校生が前髪を引っ張る。
「切りたい」
「ハサミあるだろ」
「失敗したら一か月これですよ」
「伸びるよ」
「その一か月が長いんです」
二人で笑った。
カウンターの向こうを、秩序が通る。
髪の長さも、制服の皺も、初日と同じだった。
◇
午前九時五分。
子どもは床に座って、昨日のぱむちゃんライトを点けていた。
机の下。
荷物箱の裏。
椅子の隙間。
「電池なくなるよ」
美咲が言う。
「まだつく」
「昨日もずっと使ってたでしょ」
「うん」
美咲はライトを受け取った。
裏を見る。
「予備あったかな」
電池蓋を開ける。
小さなボタン電池が二つ入っていた。
「これ、同じのあった?」
直人が荷物箱を探す。
「分からない。型番見せて」
美咲が電池を一つ外した。
ライトは点いたままだった。
「あれ」
もう一つ外した。
白い光が、美咲の手のひらを照らしていた。
◇
午前九時八分。
誰もすぐには喋らなかった。
美咲がスイッチを切る。
消える。
入れる。
点く。
電池はテーブルの上に二つ並んでいる。
高校生が近づく。
「それ、電池じゃなかったとか?」
「じゃあ何」
「飾り」
「電池の形した?」
「知らないけど」
直人がライトを持つ。
電池室は空だった。
端子もある。
蓋を閉める。
点ける。
点く。
「……昨日、入ってたよな」
「入ってた」
「二個」
「うん」
◇
午前九時十三分。
黒瀬が言った。
「クルーに聞けば」
直人はライトを持ってカウンターへ行く。
秩序が笑顔を向ける。
「いらっしゃいませ」
「これ、昨日のラッキーセットのおまけですよね」
「はい。今週の《ぱむちゃんライト》でございます」
「電池を外しても点くんですけど」
「はい」
直人が待つ。
秩序も待つ。
「……なんで?」
「ぱむちゃんライトでございます」
「いや、それは分かってる」
「今週のラッキーセットのおまけからお選びいただけます」
説明は、それ以上増えなかった。
◇
午前九時十九分。
テーブルへ戻る。
高校生がライトを見る。
「無限に点くってこと?」
「そこまでは分からない」
直人が答える。
「電池なしで今は点く。それだけ」
「でも、これ外に持っていけば」
黒瀬が言いかけた。
子どもが手を伸ばす。
「ぼくの」
全員が止まる。
「うん」
美咲が最初に答えた。
「あなたの」
直人はライトを子どもへ返した。
高校生が言う。
「いや、取るって意味じゃなくて。便利じゃんって」
「貸してって言うなら、本人に聞いて」
美咲が言った。
子どもはライトを胸元へ寄せた。
「いまはだめ」
「だって」
黒瀬が笑う。
話はそこで終わった。
◇
午前十時四十七分。
ライトは荷物箱に入っていた。
電池は元へ戻してある。
電池が必要ないなら戻す意味はない。
でも、子どもが「もどして」と言った。
だから戻した。
その横には、ぱむちゃんの指人形。
シール。
ミニカー。
スタンプ。
今までのおまけは、どれも普通だった。
少なくとも、普通ではないと分かったものはなかった。
直人は指人形を一度見た。
押しても鳴らない。
光らない。
動かない。
それを確かめようとはしなかった。
◇
午後零時十二分。
昼の注文を待つ列の横で、秩序がいつもの制服で立っている。
一か月前と同じ顔。
同じ声。
同じ姿勢。
「次のお客様どうぞー」
直人は自分の手を見る。
爪が伸びる。
髭が伸びる。
子どもの足も大きくなる。
眠れば髪が乱れる。
怪我をすれば傷が残る。
店に住み着いた荷物は増える。
カレンダーは一枚進んだ。
クルーだけが、一か月を通過したように見えなかった。
そして昨日まで普通の玩具だったものが一つ、電池なしで光っている。
世界の外側が壊れてから一か月。
PANDEMONIUMについて分からないことは、減るどころか一つ増えていた。




