第79話 一人分だけ
二十七日目、午前十時十九分。
帰り道で、黒瀬が止まった。
「待って」
直人と由佳も止まる。
住宅の門柱の陰。
道路の先に、男が倒れていた。
さっきはいなかった。
直人は周囲を見る。
ゾンビは見えない。
男の右手が動いた。
生きている。
◇
午前十時二十一分。
「聞こえますか」
直人が距離を取ったまま声をかける。
男が顔を上げた。
四十代くらい。
額から血が流れている。
「水……」
由佳がリュックへ手を伸ばす。
直人も自分の水を見る。
三人分。
帰路はまだ長い。
黒瀬が男の周囲を確認する。
「噛まれた?」
男が首を振る。
「転んだ……走って……」
「どこから?」
男が道路の向こうを指す。
「駅の方」
それ以上は続かなかった。
◇
午前十時二十四分。
由佳が未開封の五百ミリリットルを一本出した。
「これ」
直人が見る。
「全部渡す?」
由佳は少し迷った。
「はい」
「帰りの分は」
「私、もう一本あります」
直人は自分のリュックを確認した。
黒瀬も一本持っている。
三人で分ければ帰れる。
由佳は男のそばまで行かず、手の届く少し手前へボトルを置いた。
男が這うように手を伸ばす。
蓋を開ける手が震えていた。
「ゆっくり」
由佳が言った。
男は一口だけ飲んだ。
咳き込む。
それでも、もう一口飲んだ。
◇
午前十時二十九分。
「店がある」
直人が言った。
男が目を向ける。
「バーガーショップ。ここから歩ければ」
「歩けない」
男は即答した。
右足首が腫れていた。
直人はしゃがまずに見る。
担ぐ。
三人ならできるかもしれない。
だが、来た道には狭い隙間がある。
ゾンビもいる。
一人増えれば速度が落ちる。
「救急車は」
男が言いかけて、自分で笑った。
「来ないよな」
誰も答えなかった。
◇
午前十時三十三分。
家の門が少し開いている。
黒瀬が中を見る。
玄関は閉まっていた。
「ここに入れれば?」
由佳が言う。
「他人の家だ」
直人が答える。
「でも、このまま道路より」
「勝手に入れるのも違う」
男が息を整えながら言った。
「俺の家……二つ先」
三人が見る。
「白い壁の」
男が指す。
二軒先。
門までなら三十メートルほどだった。
◇
午前十時三十六分。
「そこまでなら運べる」
黒瀬が言った。
直人は道を見る。
三十メートル。
角はない。
今はゾンビも見えない。
「店までじゃなくて?」
由佳が聞く。
「本人が家って言ってる」
黒瀬が答える。
男が頷いた。
「家でいい」
直人は一瞬、PANDEMONIUMまで連れていく方を考えた。
水がある。
食べ物がある。
トイレもある。
電気もWi-Fiもある。
クルーが入口を守る。
生存には、そちらの方が有利に見える。
だが男は店へ行きたいとは言っていない。
「分かった。家まで」
◇
午前十時四十一分。
黒瀬と直人が男の左右へ入る。
由佳は前を見る。
「今、いません」
「行く」
一歩。
男が呻く。
二歩。
右足をほとんど地面につけられない。
十メートル。
二十メートル。
白い壁の家。
門を開ける。
男がポケットから鍵を出した。
自分で玄関を開ける。
中へ入る。
◇
午前十時四十八分。
玄関に男を座らせた。
「水、もう一本置く?」
由佳が聞く。
直人は残りを見る。
自分たちの分を削れば置ける。
家の中には水道がある。
出るかは分からない。
黒瀬が蛇口をひねった。
ごぼ、と音がして、細い水が出た。
「出る」
男が言う。
「じゃあ、一本でいい」
由佳は最初に渡したボトルを指した。
男が頷いた。
「ありがとう」
◇
午前十時五十一分。
「他に誰かいますか」
直人が聞く。
「いない」
「食べ物は」
「ある」
「薬は」
「痛み止めくらい」
直人は次に何を聞くべきか考えた。
店へ来るか。
一緒に行くか。
明日迎えに来るか。
どれも、今決めることではない気がした。
男が先に言った。
「ここでいい」
「分かりました」
直人はそれ以上勧めなかった。
◇
午前十時五十五分。
外へ出る。
由佳が言った。
「一人置いていくの、嫌ですね」
「うん」
直人が答える。
「でも店まで連れていくのも、こっちが勝手に決めることじゃない」
「助けたことになるんですか」
黒瀬が振り返る。
「知らない」
由佳が見る。
「家まで運んだ。それだけだろ」
黒瀬は歩き出した。
直人も続く。
助けるなら最後まで。
一人救うなら、次の一人も。
できるだけ多く。
そう考えれば、終わりはない。
今、目の前にいた一人へ、水一本と三十メートルを使った。
それ以上を約束しなかった。
◇
午前十一時十二分。
三人は帰路へ戻った。
由佳のリュックには母の薬。
水は一本減った。
男は二軒先の自宅にいる。
PANDEMONIUMには連れてこなかった。
誰かを見捨てたとも、救ったとも言い切れない。
直人は歩きながら、残った水を確認した。
多数のために取っておくこともできた一本だった。
一人に渡した。
それで何人が助かったのかは分からない。
分かるのは、その一本を飲んだ人間が一人いたことだけだった。




