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第78話 持って帰らない


二十七日目、午前九時二十七分。


親戚宅の門は半分開いていた。


由佳が先に入る。


直人は道路を振り返った。


黒瀬は門を閉めなかった。


「閉めないの?」


「帰りに音出るかもしれない」


直人は頷いた。


玄関まで、七メートル。


庭の植木鉢が一つ倒れている。


窓は閉まっていた。


由佳が鍵を出す。


「母が持たせてくれてた合鍵です」


鍵穴へ差す手が、一度だけ止まった。


回った。


◇


午前九時三十一分。


玄関には靴が三足あった。


由佳が一足を見た。


「母のです」


直人は触らない。


靴がある。


それだけでは、今ここにいる証拠にはならない。


「お母さん!」


由佳が呼ぶ。


返事はない。


もう一度。


ない。


三人は一階だけを見ることにした。


由佳が先頭。


直人が中央。


黒瀬が最後。


廊下の奥に台所がある。


写真と同じ椅子。


同じ食器棚。


テーブルの上に、空のコップが一つ。


由佳が立ち止まった。


「ここです」


写真で母が座っていた場所だった。


◇


午前九時三十六分。


薬は食器棚の横の小さな籠に入っていた。


三種類。


由佳はスマートフォンで名前を撮る。


「これ、持っていきます」


直人が聞く。


「お母さんの?」


「はい。いつも飲んでたやつです」


「全部?」


由佳は薬を見た。


「……全部」


袋ごとリュックへ入れる。


その横に未開封の水が六本あった。


二リットル。


さらに米。


缶詰。


レトルト食品。


黒瀬が冷蔵庫を開ける。


「電気、死んでる」


生ぬるい空気が出た。


すぐ閉める。


直人は床に並んだ水を見る。


十二キロ。


米を足せばもっと増える。


PANDEMONIUMへ持ち帰れば使える。


水はいくらあっても困らない。


食料も同じだ。


「持てるだけ持つ?」


由佳が聞いた。


直人はすぐには答えなかった。


◇


午前九時四十一分。


直人は自分のリュックを下ろした。


今入っているもの。


水。


タオル。


工具。


簡易救急用品。


帰りに必要なものだ。


そこへ二リットルを二本入れてみる。


背負う。


重い。


歩けない重さではない。


だが、走るなら違う。


塀と電柱の隙間をもう一度通るなら、幅も増える。


「置いていこう」


直人が言った。


由佳が水を見る。


「でも使えますよね」


「使える」


「店にいる人も多いし」


「うん」


「じゃあ」


「帰れなくなるほど持つ必要はない」


直人は二本を元へ戻した。


一本だけでも、と一瞬思う。


やめた。


今日の目的は物資回収ではない。


母の痕跡と、薬。


帰り道はまだ安全だと確認できていない。


価値があることと、今運ぶことは別だった。


◇


午前九時四十六分。


黒瀬が廊下の奥から戻ってきた。


手には何もない。


「二階は?」


直人が聞く。


「見てない」


「なんで?」


「由佳さんが一階だけって言ったから」


由佳が顔を上げた。


「二階、母が寝てた部屋があります」


三人とも階段を見る。


上は暗い。


由佳が一段目へ足を置く。


そのとき、外で何かが倒れた。


がしゃん。


三人が止まる。


黒瀬が玄関側を見る。


「外」


直人は時計を見る。


まだ入って二十分も経っていない。


由佳は階段を見る。


それから、リュックの薬に触れた。


「二階、行きません」


直人が由佳を見る。


「いいの?」


「よくないです」


由佳は答えた。


「でも、今じゃなくていい」


◇


午前九時四十九分。


玄関の小窓から外を見る。


門の向こうを一体が歩いていた。


こちらには気づいていない。


倒れたのは道路脇の自転車だった。


黒瀬が小声で言う。


「今なら出られる」


由佳は靴箱の上を見る。


鍵束。


封筒。


古い写真立て。


写真には由佳と母が写っている。


由佳は写真立てへ手を伸ばした。


途中で止める。


スマートフォンで一枚撮った。


写真立ては置いたままにした。


「それは?」


直人が聞く。


「欲しいです」


「持っていけば」


「割れたら嫌だから」


由佳はスマートフォンをポケットへ入れた。


欲しいものでも、持って帰らない理由があった。


◇


午前九時五十二分。


三人は外へ出た。


由佳のリュックには母の薬。


直人と黒瀬の荷物は、来たときとほとんど変わらない。


台所には水が六本残っている。


米もある。


缶詰もある。


二階も見ていない。


母も見つかっていない。


何一つ片づいてはいなかった。


由佳が玄関の鍵を閉める。


「また来るかもしれません」


直人は頷いた。


「そのとき残ってれば使える」


黒瀬が言う。


「残ってなかったら?」


由佳が聞く。


「そのとき考える」


由佳は少しだけ笑った。


◇


午前十時七分。


帰り道。


さっき通った細い道の手前で、直人は一度リュックを持ち直した。


軽い。


その軽さが、今は役に立つ。


道路の向こうで二体が動いている。


走る必要が出るかもしれない。


塀の隙間を抜けるかもしれない。


誰かを支えるかもしれない。


由佳が前を歩く。


母の薬だけが、リュックの中で小さく鳴った。


水も米も写真立ても、親戚宅に残ったままだった。

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