第77話 美咲の予定
二十七日目、午前九時二十三分。
直人たちが出てから、一時間二十一分。
美咲は子どもの靴を見ていた。
つま先が白く擦れている。
「痛い?」
「いたくない」
「ほんと?」
「ほんと」
五歳の子どもは、そのまま店内を走ろうとした。
「走らない」
止まる。
また歩く。
美咲は靴を見た。
終末が始まった日に履いていた靴だった。
◇
午前九時三十一分。
荷物箱を開ける。
子どもの服。
下着。
タオル。
色鉛筆。
誕生日にもらった、ぱむちゃんの指人形。
靴は一足だけだった。
美咲は自分の荷物も見る。
必要なものはだいたいある。
必要になってから拾ったものもある。
買ったものもある。
店でどうにかなったものもある。
けれど、子どもの靴だけは拾ったものを履かせる気になれなかった。
サイズが合わなければ歩けない。
外で足を痛めれば、それだけで困る。
「家にあったよね」
美咲が言う。
子どもが指人形を指にはめたまま振り向く。
「なにが?」
「大きい靴」
「青いの?」
「あれ」
「あるよ」
子どもは覚えていた。
◇
午前九時四十七分。
美咲は地図を開いた。
PANDEMONIUMのフリーWi-Fiにつながっている。
以前住んでいた集合住宅までの道を表示する。
距離。
道路。
途中の交差点。
直人なら、ここから先に条件を書き始める。
何人で行くか。
何時に出るか。
どの道を使うか。
何を持って帰るか。
危険ならどこで戻るか。
美咲は地図を閉じた。
まだ行かない。
今日は直人たちが外へ出ている。
だから今日ではない。
それだけ決めた。
◇
午前十時二分。
「明日、家に行こうと思う」
美咲が言った。
高校生が顔を上げる。
「相沢さんたち帰ってから?」
「ううん。明日」
「いや、だから相沢さんに聞いてからってこと?」
美咲は少し考えた。
「話はするよ」
「許可じゃなくて?」
「なんで直人の許可がいるの」
高校生が黙った。
「危ないから」
「危ないかどうかは一緒に考える。でも行く理由まで直人に決めてもらわない」
美咲は子どもの靴を見る。
「この子の次の靴、取りに行く」
◇
午前十時十三分。
「俺、行こうか?」
高校生が言った。
「まだ頼まない」
「なんで」
「誰と行くかは、行くって決めてから考える」
「順番、逆じゃない?」
「そう?」
美咲は笑った。
「直人なら逆かもね」
高校生も少し笑った。
「絶対、表作る」
「作るね」
美咲は紙を一枚取った。
それでも表にはしなかった。
《青い靴》
その下に、
《子どもの上着》
《写真》
と書く。
写真でペンが止まった。
「写真も必要?」
高校生が聞く。
「必要じゃない」
「じゃあ何で」
「欲しいから」
それだけだった。
◇
午前十時二十九分。
紙には三つだけ残った。
青い靴。
子どもの上着。
写真。
冷蔵庫もある。
テレビもある。
電子レンジもある。
布団もある。
持ってこようと思えば、運べる物はいくらでもある。
店内では、拾ってきた家電や家具がもう生活の一部になっていた。
だから美咲は書かなかった。
家へ行くことと、家を空にすることは違う。
◇
午前十一時四分。
子どもが紙を見る。
「これなに?」
「明日取りに行きたいもの」
「いっしょにいく?」
美咲はすぐには答えなかった。
「それはまだ決めてない」
「ぼくのくつだよ」
「そうだね」
「ぼくもいく」
美咲は子どもの顔を見る。
自分が行くと決めたからといって、子どもまで連れていくことは決まらない。
「それは一緒に考えよう」
「だれと?」
「あなたと」
子どもが少し考えた。
「パパは?」
「パパとも話す」
「みんな?」
「最後は、行く人が決める」
子どもには難しかったらしい。
「ふうん」
指人形を動かす。
「ぱむ」
◇
午後零時十一分。
直人から連絡はない。
店内ではWi-Fiが生きている。
外へ出た直人の端末は圏外になる。
だから、美咲はメッセージを送らなかった。
帰ってきてから話せばいい。
急ぎではない。
明日の予定だった。
それまでに変われば、やめればいい。
◇
午後一時三十六分。
美咲は子どもの足を紙の上に置いた。
鉛筆で輪郭を取る。
「くすぐったい」
「動かない」
「むり」
線が曲がる。
もう一度。
今度は少しましだった。
足形の横へ日付を書く。
二十七日目。
いつから今の靴が小さくなり始めたのかは分からない。
でも、子どもの足は終末になっても大きくなる。
クルーは初日と同じ制服で働いている。
メニューも値段も、店の明るさも変わらない。
その中で、子どもの靴だけが少しずつ合わなくなっていた。
◇
午後二時八分。
美咲は紙を荷物箱の蓋に挟んだ。
《明日》
とは書かなかった。
《次に家へ行くとき》
と書き直した。
予定は決めた。
日付までは決めない。
直人が帰ってきたら話す。
危険なら変える。
子どもが行きたいと言ったことも伝える。
それでも、最初の一行だけは消さなかった。
《青い靴》
直人がいない午前中に、美咲は家族の次の用事を一つ決めていた。




