第75話 もう一度外へ
二十七日目、午前六時五十一分。
由佳はもう起きていた。
布団は畳んである。
靴も履いていた。
直人はそれを見て、何をするつもりか分かった。
「熱は?」
「測りました」
由佳が体温計を見せる。
三六・八。
「喉は」
「少し変。でも昨日よりいいです」
「吐き気」
「ないです」
由佳は答え終わると、テーブルの上の地図を指した。
「行きます」
◇
午前六時五十五分。
「親戚の家?」
美咲が聞く。
由佳が頷いた。
昨日、写真の中で母がいた場所。
現在地ではない。
生存の証明でもない。
それでも、五つあった候補の中で、そこだけには母が実際にいた時間がある。
「昨日は明日決めるって言っただろ」
黒瀬が言う。
「決めました」
「誰が行く」
由佳は一度、直人を見た。
それから言った。
「私です」
◇
午前七時七分。
直人は反射的に地図へ手を伸ばした。
「待って。経路を」
「昨日見ました」
「でも外の数は変わってる」
「それも見ました」
由佳が窓を指す。
駐車場に二体。
道路の向こうに三体。
昨日の夜より少ない。
直人は次の言葉を探した。
「一人では」
「一人で行くとは言ってません」
由佳が言った。
「でも、私が行きます」
その違いで、直人の口が止まった。
誰かに行ってもらうのではない。
誰かに連れていってもらうのでもない。
自分の目的に、自分が参加する。
◇
午前七時十五分。
高校生がスマートフォンを持ってきた。
「ネット、まだ繋がってる」
携帯回線の表示は圏外。
その横にWi-Fiの扇形がある。
PANDEMONIUMのフリーWi-Fi。
地図を開く。
ニュースを開く。
道路情報を開く。
どれも表示された。
「なんでだよ」
新人の男が言った。
高校生が肩をすくめる。
「知らん。店だからじゃね」
誰も笑わなかった。
もう、その説明で済ませることが増えていた。
由佳は母へメッセージを送る。
《今から親戚の家へ行く》
送信済み。
既読はつかない。
「返事、待つ?」
美咲が聞く。
由佳は画面を見た。
「七時半まで」
自分で時間を決めた。
◇
午前七時二十一分。
充電の残量を確認する。
由佳、九十八パーセント。
直人、百パーセント。
黒瀬、八十四パーセント。
昨夜から壁際のコンセントと延長コードに差していた。
電気は来ている。
冷蔵庫も動く。
電子レンジも。
スマートフォンも充電できる。
街のどこまで停電しているのかは分からない。
PANDEMONIUMの中では、コンセントへ差せば充電できた。
それ以上の説明はなかった。
「モバイルバッテリー持つ?」
高校生が聞く。
由佳は首を振った。
「今回はいいです。増やしすぎない」
黒瀬が少しだけ由佳を見る。
「覚えたな」
「昨日、持って帰る物の話したから」
◇
午前七時三十分。
既読はつかなかった。
由佳はスマートフォンをポケットへ入れた。
「行きます」
直人が立つ。
「俺も行く」
由佳は頷いた。
黒瀬も立った。
「俺も」
「三人?」
美咲が聞く。
「三人」
直人が答える。
前回の薬探索と同じ人数だった。
同じではない。
前回、由佳はいなかった。
◇
午前七時四十二分。
持っていく物を並べる。
水。
軍手。
懐中電灯。
タオル。
バール。
スマートフォン。
由佳が自分のリュックを置く。
直人が聞く。
「目的は?」
「母がいるか確認する」
「いなかったら」
「家の中を勝手に全部探さない」
「薬は?」
「母のものだと確認できたら。必要なら」
「他の物資」
「持って帰らない」
由佳は一つずつ答えた。
それから直人を見る。
「これでいいですか」
直人は答えかけた。
いい。
違う。
由佳が決めた目的だった。
「俺が決めることじゃない」
由佳は少しだけ笑った。
「じゃあ、これで行きます」
◇
午前七時五十八分。
自動ドアの前。
由佳の足が止まった。
外に一体いる。
遠い。
こちらにはまだ気づいていない。
「怖い?」
美咲が聞いた。
由佳は頷いた。
「怖いです」
昨日までなら、その答えは行かない理由になったかもしれない。
由佳はドアの向こうを見る。
「でも、写真を見る前より怖いです」
直人が由佳を見る。
「なんで」
「いるかもしれないから」
希望は、恐怖を小さくしなかった。
失うものを具体的にした。
◇
午前八時二分。
秩序がレジで客へ釣り銭を渡している。
渾沌が厨房で紙袋を閉じる。
ぱむちゃんが入口の近くを歩いてきた。
「ぱむ」
由佳がしゃがむ。
「行ってくるね」
「ぱむ」
意味は分からない。
由佳は立った。
自動ドアが開く。
外気が入る。
PANDEMONIUMのWi-Fi表示が、スマートフォンの画面から消えた。
数歩。
携帯回線は圏外のまま。
由佳は一度だけ画面を見る。
母からの返信はない。
スマートフォンをしまう。
「行きましょう」
今度は、直人ではなく由佳が先に歩いた。




