第74話 写真一枚
二十六日目、午後二時十七分。
「これ、どこの写真?」
高校生が言った。
由佳は布団から身体を起こした。
直人が振り返る。
高校生の手には、昨日まで見なかったスマートフォンがあった。
画面に女の人が写っている。
台所。
鍋。
白い湯気。
カメラへ顔を向けて笑っていた。
由佳が息を止めた。
「母です」
◇
午後二時十九分。
スマートフォンは、昨日の夜に店へ入った男が持っていた。
自分のものではない。
「道路に落ちてた」
男が言う。
「拾ったのは二日前。電池切れてたから、さっき充電した」
由佳が画面へ近づく。
「これ、いつの?」
高校生が写真の情報を開く。
日付。
終末が始まってからだった。
店内が静かになる。
「場所は?」
直人が聞く。
「位置情報はない」
写真の背景を見る。
冷蔵庫。
棚。
壁に掛かった布巾。
由佳が言った。
「ここ、親戚の家です」
◇
午後二時二十五分。
昨日、地図に付けた五つの印。
その一つに、初めて根拠ができた。
「じゃあ、そこにいるんじゃん」
高校生が言う。
由佳はすぐには頷かなかった。
「いた、です」
「写真の日には」
黒瀬が続ける。
「今もいるとは限らない」
高校生が画面を見る。
「でも候補としては一番強いだろ」
「うん」
由佳が答えた。
声が少し震えていた。
昨日までの五分の一ではない。
ただの候補でもない。
母が、そこにいた時間がある。
◇
午後二時三十八分。
「この鍋」
由佳が画面を拡大した。
「母のじゃない」
「親戚の?」
「たぶん」
「これ、何作ってるんだろ」
美咲が聞く。
由佳は少し笑った。
「カレーかも」
「見えないよ」
「母、こういう鍋でカレー作るから」
写真には料理そのものは写っていない。
ただ、鍋がある。
湯気がある。
人が生活していた。
由佳の母は、その中にいた。
◇
午後二時五十一分。
「行きたい」
由佳が言った。
昨日より早かった。
直人は地図を見る。
親戚宅までの道。
距離。
途中の大通り。
昨日の夜、窓の外を埋めたゾンビの数。
「今日は熱ある」
黒瀬が言った。
由佳が体温計を見る。
三七・二。
「下がってます」
「平熱じゃない」
「でも」
「行くなとは言ってない」
黒瀬は言った。
「今日のお前が行くかは別だ」
由佳は黙った。
◇
午後三時九分。
「私が行かなかったら」
由佳が言う。
「誰かが代わりに行くんですか」
直人は答えなかった。
行ける。
たぶん。
親戚宅という目的地は昨日よりずっと具体的になった。
だが、由佳の母を探す理由は由佳のものだった。
「頼めば行ってくれる?」
由佳が直人を見る。
直人は地図から目を離した。
「頼まれたからって、行くとは言えない」
由佳の顔が固くなる。
「じゃあ、昨日と同じじゃないですか」
「違う」
「何が」
「昨日は行き先がなかった。今日はある」
「でも行かない」
「今日行くかは、まだ決めてない」
由佳は唇を噛んだ。
◇
午後三時二十二分。
写真がもう一枚あった。
同じ台所。
人はいない。
テーブルの上に、薬の袋が置いてある。
由佳が画面を奪うように持った。
「これ」
袋の印字は小さくて読めない。
けれど、昨日レシートの裏に書いた三つの数字のうち、一つと似た数字が見える。
「母のかもしれない」
「かもしれない、だな」
黒瀬が言う。
由佳は頷いた。
昨日なら、その言い方に苛立ったかもしれない。
今日は画面を見たまま言った。
「はい。かもしれない」
◇
午後三時四十分。
高校生が写真を送る。
携帯回線は圏外だったが、PANDEMONIUMのフリーWi-Fiは繋がっている。
「送れた」
「ほんとにネットだけ生きてるな」
誰も理由を説明できない。
「これ、消えたら困るな」
美咲が紙を持ってくる。
写真の日付。
親戚宅。
台所。
薬袋らしい物。
見えたことだけを書く。
《母本人らしき人物》とは書かなかった。
由佳が言う。
「本人です」
美咲がペンを止める。
「そこは由佳さんが分かるなら、本人でいいね」
《由佳の母》
書き直す。
推測と、本人が知っていることを分ける。
◇
午後四時三分。
「私、置いてきたんだ」
由佳が突然言った。
「何を?」
「母を」
誰もすぐには返さなかった。
「最後の電話で、私、自分だけ逃げたから」
「場所が決まってなかったんだろ」
直人が言う。
「でも電話した」
「うん」
「迎えに行かなかった」
写真の中で、母は笑っている。
生きていた証拠が、由佳を安心させている。
同じ一枚が、由佳を責めてもいた。
「写真がなかったら」
由佳が言う。
「もう駄目だったって思えたかもしれない」
黒瀬が窓を見る。
「写真は、今を写してない」
由佳が頷く。
「分かってます」
それでも画面を閉じなかった。
◇
午後四時二十六分。
由佳はもう一度、体温を測った。
三七・一。
「明日なら」
直人が言う。
由佳が見る。
「明日の朝、熱と体調を見る。それから考える」
「行ってくれるんですか」
「それも明日決める」
由佳は不満そうだった。
それでも、昨日のように「必要なのに」とは言わなかった。
「私も決めます」
「何を?」
「自分が行くか」
黒瀬が由佳を見る。
何も言わなかった。
◇
午後五時十二分。
スマートフォンは充電器につないだ。
持ち主は分からない。
拾った男の物でもない。
勝手に持ち出さないことにした。
写真の日付と、親戚宅の場所だけを紙へ写す。
由佳は最後にもう一度、画面を見た。
母は笑っていた。
それだけだった。
生きているとは書いていない。
死んだとも書いていない。
助けを求めてもいない。
それでも昨日まで空白だった地図の一点に、生活していた人間の時間が一枚だけ刺さった。
由佳はその一点を、もうただの候補地とは呼ばなかった。




