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第73話 取りに行けない物


二十六日目、午前九時十八分。


由佳の熱は三七・三まで下がっていた。


朝の水を飲んでから、しばらく黙っていた。


「取りに行きたい物があるんです」


直人は顔を上げた。


「どこ?」


由佳は答えなかった。


「……分からないんです」


◇


午前九時二十二分。


由佳が財布から小さな紙を出した。


レシートの裏だった。


数字が三つ書いてある。


「母が薬を飲んでて」


「薬の名前?」


美咲が聞く。


「一つは分かります。二つは、たぶん」


「家にある?」


「あると思う」


「家は?」


由佳は唇を噛んだ。


「自宅じゃないんです」


直人は待った。


「母、避難するって言ってて。親戚の家か、公民館か、病院か……最後に電話したとき、まだ決めてなくて」


紙の数字が、急に遠く見えた。


◇


午前九時三十一分。


高校生がスマートフォンの地図を出した。


「親戚の家は分かる?」


「住所は」


「公民館は?」


「二つ候補がある」


「病院は?」


「かかりつけなら」


地図に印が増える。


四か所。


由佳の自宅を入れると五か所。


「全部回る?」


高校生が言った。


黒瀬がすぐに言う。


「誰が」


「いや、例えば」


「五か所回って、いなかったら?」


高校生は黙る。


「いたら?」


今度は美咲が聞いた。


由佳が顔を上げる。


「連れて帰ってきてほしい」


言ってから、自分で止まった。


◇


午前九時四十三分。


「……違う」


由佳が言った。


「何が?」


「連れて帰って、じゃない」


昨日、自分が店へ入ったときのことを思い出したのだと、直人には分かった。


「母が来るって言ったら、連れてきてほしい」


黒瀬が頷いた。


「そこは違うな」


「でも、熱があったり、動けなかったら」


由佳はまた止まる。


答えは出なかった。


本人の意思を聞ける状態なのかも分からない。


生きているのかも。


どこにいるのかも。


◇


午前十時六分。


「薬だけなら?」


高校生が言った。


「家にある薬を取ってくる」


「誰の家?」


黒瀬が聞く。


「由佳さんの」


「母親の薬なんだろ」


「家族ならいいんじゃない?」


「誰が決めた」


高校生が眉を寄せる。


「細かくない?」


黒瀬は怒らなかった。


「細かいよ。外へ出る理由になるから」


直人は意味が分かった。


危険を冒す理由は、もっともらしく膨らむ。


必要そうな物。

役に立ちそうな物。

家族なら許されそうな物。


それを積み上げれば、どこへでも行けてしまう。


◇


午前十時二十四分。


由佳はレシートを見ている。


「じゃあ、無理ってことですか」


「違う」


直人が言った。


「今は、取りに行く先が決められない」


「でも母には必要かもしれない」


「うん」


「必要なのに」


「うん」


それ以上の言葉がなかった。


必要であることと、取りに行けることは別だった。


◇


午前十時四十八分。


由佳がカウンターを見た。


「店員さんなら」


直人も見る。


秩序が注文を取っている。


昨日、ドアの前のゾンビを何体も退けた。


人間なら危険な道路も、あの人たちなら歩けるのかもしれない。


「頼んでみる?」


美咲が聞いた。


由佳は少し迷って、立った。


◇


「すみません」


「はい」


「人を探して、薬を取ってきてもらうことってできますか」


秩序は由佳を見る。


「商品のご注文でしょうか」


「違います。母を探してほしくて」


「当店では承っておりません」


「場所が分かれば?」


「当店では承っておりません」


「薬だけでも?」


「当店では承っておりません」


由佳は戻ってきた。


高校生が小さく言う。


「できそうなのに」


黒瀬が答えた。


「昨日と同じだ」


できるかどうかと、やるかどうか。


また、その境界だった。


◇


午前十一時十九分。


五か所の印は消さなかった。


ただ、順番も付けなかった。


由佳の母がどこにいるか分からない。


薬がどこにあるか分からない。


薬の正確な種類も二つは分からない。


見つけたとして、それを持ち出していいのかも分からない。


母本人がPANDEMONIUMへ来たいかも分からない。


分からないことが多すぎた。


「何か一つ分かればな」


高校生が言った。


由佳がレシートを折る。


「電話が繋がれば」


由佳は圏外表示のスマートフォンを見る。


「Wi-Fiは?」


高校生が言った。


画面上部には、PANDEMONIUMのフリーWi-Fiの表示がある。ネットは開く。メッセージも送れる。


由佳は母へもう一度送った。


既読はつかなかった。


通信手段があることと、相手が応答できることは別だった。


◇


正午十二分。


由佳は横になった。


美咲が水を置く。


直人は地図を閉じなかった。


行かない、と決めたわけではない。


行く、と決められないだけだった。


外へ出る力がある。


ゾンビを倒す力もある。


荷物を運ぶ手もある。


それでも、どこへ行くか分からなければ歩き出せない。


誰の物か分からなければ持って帰れない。


本人が何を望んでいるか分からなければ、連れて帰ることもできない。


力で埋められない空白が、地図の上に五つ残った。

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