第70話 二人目
二十五日目、午前六時四十二分。
咳で目が覚めた。
直人は身体を起こした。
自分ではない。
もう一度。
客席の奥。
新しく来た女が、口元を押さえていた。
「大丈夫?」
美咲も起きる。
女は頷いた。
「喉が、ちょっと」
黒瀬が目を開けた。
それだけで、周囲の空気が変わった。
◇
午前六時四十八分。
体温計が鳴る。
「三七・八」
女が表示を見せた。
誰もすぐには喋らなかった。
昨日まで、黒瀬の話をしていた。
発熱。
感染したかもしれない。
回復。
そして今、二人目がいる。
「昨日、店に来たときは?」
直人が聞く。
「熱はなかったと思う」
「測った?」
「測ってない」
「他は」
「喉。あと、寒い」
店内は空調が効いている。
女は腕を擦った。
◇
午前六時五十五分。
「離れた方がいい?」
女が聞いた。
直人は答えなかった。
昔なら、すぐ答えようとした。
黒瀬を見る。
黒瀬も黙っている。
「まず、少し距離取ろう」
美咲が言った。
「奥の席、空けられる」
「外じゃなくて?」
女が聞く。
黒瀬が顔を上げた。
「外へ出れば安全になるって、誰も分かってない」
直人は頷いた。
「人と近くならない場所を作ろう。換気とか、使う物とかも分ける。でも、何の病気かは決めない」
女は小さく頷いた。
◇
午前七時十二分。
椅子を動かす。
通路は塞がない。
女の荷物を窓際の奥へ移す。
紙コップ。
タオル。
体温計。
ゴミ袋。
高校生がマスクを一箱持ってきた。
「これ、前に拾ったやつ」
「全員に配る?」
「必要な人からでいいんじゃない」
直人が言った。
女がマスクを着ける。
「私、ゾンビになるのかな」
誰も答えなかった。
「黒瀬さんはならなかったんですよね」
女が続ける。
黒瀬が言った。
「俺は、なってない」
「じゃあ私も」
「それは分からない」
女の顔が固まった。
「同じ熱なのに?」
「同じ数字なだけだ」
◇
午前八時三分。
三八・一。
少し上がった。
女は布団へ横になっている。
水は飲める。
会話もできる。
「黒瀬さんは何日で下がった?」
高校生が聞いた。
「覚えてない」
「何日目に一番高かった?」
「それも正確には」
直人が言う。
「比べすぎない方がいい」
「でも目安にはなるだろ」
「なるかもしれない。でも黒瀬一人だけだ」
一人目が無事だった。
その事実はある。
二人目も同じになる。
その事実はない。
◇
午前九時二十一分。
女が吐いた。
ゴミ袋が間に合った。
美咲が背中へ手を伸ばしかける。
止める。
「触っていい?」
女が頷いた。
背中を擦る。
黒瀬にはなかった症状だった。
直人はメモへ書く。
《9:21 嘔吐》
その横に、黒瀬の経過を書きそうになる。
やめた。
別の紙を使う。
女の名前を聞いていないことに気づいた。
「名前、聞いていい?」
女が目を閉じたまま答える。
「由佳」
直人は紙の上に書いた。
《由佳》
黒瀬の二人目、ではなくなった。
◇
午前十時四十七分。
由佳は眠っていた。
体温、三八・〇。
上がっていない。
下がってもいない。
黒瀬が少し離れた席から見ている。
「俺のとき、こんなだった?」
直人は首を振る。
「違ったと思う」
「思う?」
「記録が雑だった」
「じゃあ、俺と違うとも言い切れないな」
「うん」
「同じとも言えない」
「うん」
二人とも、それ以上言わなかった。
◇
正午。
注文番号が呼ばれる。
由佳は眠っている。
秩序はいつもと同じ声で客を呼ぶ。
渾沌は厨房で動き続けている。
二十五日目でも、疲れた顔をしていない。
人間の方だけが、体温を測る。
眠る。
吐く。
水を飲む。
心配する。
「治してくれたらな」
高校生が小さく言った。
直人はカウンターを見た。
昨日と答えは変わらない。
できるかどうかは分からない。
医療行為は承っていない。
だから、人間側でできることをする。
◇
午後一時三十八分。
由佳が目を覚ました。
「何時?」
「一時半過ぎ」
「熱は?」
測る。
三七・六。
高校生が息を吐いた。
「下がった」
由佳も少し笑った。
黒瀬は笑わなかった。
「一回な」
高校生が見る。
「何」
「一回下がっただけだ」
由佳も聞いていた。
笑顔が消えかける。
黒瀬が続けた。
「悪い意味じゃない。良くなってるかもしれない。でも、決めるのはまだ早い」
由佳は少しして頷いた。
◇
午後三時五分。
三七・九。
また少し上がった。
高校生は何も言わなかった。
直人が紙へ書く。
《15:05 37.9》
その上には数字が並んでいる。
37.8。
38.1。
38.0。
37.6。
37.9。
同じ人の中ですら、数字は一直線には動かなかった。
まして、別の人間なら。
直人は黒瀬を見る。
黒瀬はもう、自分の経過を由佳へ重ねていなかった。
◇
午後四時二十二分。
由佳が水を飲む。
「私、どうなるんでしょう」
直人は答えた。
「分からない」
以前なら、それだけでは足りないと思った。
今は違った。
分からないことを、分かった形にしない。
その代わり、次に測る時間を決める。
水を置く。
吐いた回数を書く。
呼吸がおかしくなったら知らせてもらう。
できることだけを増やす。
由佳が言った。
「黒瀬さんみたいに戻れるかもしれない?」
直人は少し考えた。
「かもしれない」
「違うかもしれない?」
「うん」
由佳は怖そうな顔をした。
それでも、頷いた。




