第68話 元どおりじゃない
二十四日目、午後一時九分。
「それ、俺が持つ」
黒瀬が言った。
直人は、折り畳みテーブルの端に置かれた水の箱を見る。
十二本入り。
「大丈夫か」
「これくらい」
黒瀬は箱へ手を伸ばした。
持ち上げる。
胸の高さまで来る前に、一度止まった。
ほんの一秒。
直人は見た。
黒瀬も、直人が見たことに気づいた。
「重い?」
「重いよ。水だぞ」
黒瀬は笑った。
前なら、そのまま運んでいた。
◇
午後一時十四分。
「半分にしよう」
直人が言った。
「いける」
「いけるかどうかじゃなくて」
箱を開ける。
六本ずつに分ける。
黒瀬が黙って見ていた。
「過保護になったな」
「なった」
直人は否定しなかった。
黒瀬は六本を持つ。
今度は止まらなかった。
二人で冷蔵庫まで運ぶ。
それだけだった。
それだけなのに、直人は以前の黒瀬を思い出していた。
誰かが倒れれば先に行く。
扉が開かなければ開ける。
荷物があれば持つ。
空いた手へ、仕事が集まる人だった。
◇
午後一時二十九分。
新しく来た女が、少し離れた席から聞いた。
「怪我してるんですか」
黒瀬が自分の腕を見る。
「怪我はしてない」
「じゃあ、病気?」
「前に熱が出た」
「今は?」
「ない」
女は迷ってから、さらに聞いた。
「感染したんですか」
店内の何人かが会話を止めた。
黒瀬はすぐには答えなかった。
「分からない」
「検査とか」
「確定する前に、世の中がこうなった」
女は頷いた。
それ以上は聞かなかった。
分からないものは、三週間経っても分からないままだった。
◇
午後一時四十六分。
高校生が外を見ている。
「駐車場、今一体だけ」
黒瀬も見る。
「少ないな」
「何か取りに行くなら今じゃない?」
昨日までなら、黒瀬が最初に立っていたかもしれない。
今日は立たなかった。
直人が聞く。
「行きたい?」
黒瀬は窓の外を見たまま言った。
「今日はいい」
「体調?」
「それもある」
「他は?」
「昨日、お前らが帰ってくるの見てたから」
直人は黙った。
黒瀬は続ける。
「行けるから行く、はやめる」
それは弱くなった人間の言葉には聞こえなかった。
◇
午後二時十二分。
美咲が布団を畳んでいた。
直人が手伝おうとすると、首を振る。
「そっちじゃなくて、充電の表見て」
「なんで」
「昨日から二台、順番飛ばしてる」
「誰の?」
「分からないから見てほしいの」
直人は紙を見る。
名前と端末。
充電開始時刻。
終わったら次へ回す印。
三週間前なら、美咲はこんな表を使っていなかった。
黒瀬も水を六本ずつ運んでいなかった。
直人も、人が外へ出る前に「行きたい?」とは聞かなかった。
戻ったのではない。
暮らしの側が、人に合わせて形を変えていた。
◇
午後二時三十八分。
黒瀬が椅子に座っている。
珍しかった。
何もしていない。
直人は向かいへ座った。
「暇?」
「暇」
「何かやれば」
「休んでるんだよ」
「自分から?」
「悪いか」
「いや」
黒瀬は紙カップの水を飲む。
「前はさ」
直人が言う。
「お前が動ける前提で考えてた」
「知ってる」
「便利だったから」
「知ってる」
「今は」
黒瀬が先に言った。
「便利じゃなくなった?」
直人は首を振る。
「違う。前と同じ便利さを求めるのがおかしい」
黒瀬は少し笑った。
「それ、褒めてる?」
「たぶん」
◇
午後三時七分。
新しい女が、空いた紙コップを捨てに立った。
その途中で黒瀬を見る。
「もう治ったんですよね」
黒瀬は少し考えた。
「熱は下がった」
「じゃあ、元どおり?」
「それは違う」
女が止まる。
黒瀬は自分の手を見る。
「前と同じことはできるかもしれない。でも、前と同じやり方をする気はない」
「どうして」
黒瀬は窓の外を見る。
「一回、外に出されたからな」
女は意味を全部は分からなかったようだった。
それでも頷いた。
◇
午後三時二十二分。
直人は充電表を直した。
二台分の順番を戻す。
黒瀬はまだ座っている。
誰も仕事を持ってこない。
水の箱も半分ずつで運ばれた。
外へ出る役も、今日は決めなかった。
回復したから、以前の場所へ戻す。
そうしなくても生活は続いた。
黒瀬の熱は下がった。
けれど、黒瀬が戻る場所まで元どおりである必要はなかった。




