第67話 客になれますか
二十四日目、午前十時四分。
女は、自動ドアが閉じる音で振り返った。
ガラス一枚の向こうに、さっきまでいた道路がある。
ゾンビが一体、遠くを歩いていた。
こちら側には冷気がある。
油の匂い。
注文番号を呼ぶ声。
「……ここ、本当に」
女が言った。
言葉が続かない。
直人は待った。
「店なんですね」
「うん」
◇
午前十時六分。
秩序がカウンターから言った。
「ご注文がお決まりになりましたらお申し付けください」
女は直人を見る。
「注文?」
「するなら」
「しないと、いられない?」
直人は答えられなかった。
黒瀬も黙っている。
三週間以上ここにいる。
それでも、店がどこまでを客として許すのか、全部を知っているわけではない。
「俺らは注文してる」
直人は言った。
「必要なときに。食べたり、飲んだり」
「避難の受付とかは?」
「ない」
「名前を書くところ」
「ない」
「人数の確認」
「店としては、たぶんない」
女の顔に、困惑が増えた。
◇
午前十時十一分。
美咲が無料のお冷やを一杯持ってきた。
途中で止まる。
「これ、私が汲んで渡していいんだっけ」
高校生が言う。
「お冷やは無料だし、今まで普通にやってる」
「ドリンクバーと混ざるとややこしいのよ」
女が二人を見る。
「水にもルールがあるんですか」
「あるというか」
美咲がカップを渡す。
「無料のお冷やは無料。ドリンクバーは注文した人が機械から汲む。注文してない人が直接汲んだら、その人の料金になる」
女は水を受け取ったまま固まった。
「……ゾンビがいるのに?」
「いるけど」
高校生が答えた。
「料金は料金」
女は水を飲んだ。
一気に半分なくなった。
◇
午前十時十九分。
「お金、あまりないです」
女が言った。
ポケットから財布を出す。
濡れて、角が潰れている。
千円札が一枚。
小銭。
カードが数枚。
「全部出さなくていい」
美咲が止めた。
女は財布を閉じる。
「ここにいる人、ずっと払ってるんですか」
「注文した分は」
「何週間も?」
「うん」
女は店内を見る。
冷蔵庫。
電子レンジ。
畳まれた布団。
衣類の袋。
充電中の端末。
「これ、避難所じゃないんですか」
「違う」
今度は直人がすぐ答えた。
「俺らが勝手に暮らしてる」
◇
午前十時二十七分。
「じゃあ、私は何なんですか」
誰も答えなかった。
女が笑った。
困ったときの笑い方だった。
「避難してきたんですけど」
「俺らもそうだった」
直人が言う。
「でも店から避難民って呼ばれたことはない」
「じゃあ、お客さん?」
「たぶん」
「何も買ってなくても?」
「今はまだ何も買ってないな」
高校生が言う。
美咲が肘で小突いた。
「痛っ」
女はまたカウンターを見る。
秩序は別の客へ商品を渡している。
「ありがとうございました」
いつもの声だった。
◇
午前十時三十四分。
女が立ち上がった。
カウンターへ行く。
途中で一度、直人を振り返った。
直人は何もしなかった。
女が自分でメニューを見る。
しばらくして、秩序へ聞いた。
「あの」
「はい」
「私も、客になれますか」
秩序は表情を変えなかった。
「もちろんでございます」
女が目を瞬く。
「何か、条件とか」
「ご注文がお決まりでしたら、お伺いいたします」
「それだけ?」
秩序は一拍置いた。
「店内では、他のお客様のご迷惑にならないようお願いいたします」
女はしばらく黙った。
「……ハンバーガー、一つください」
「かしこまりました」
◇
午前十時三十六分。
金額が表示された。
女は千円札を出した。
釣り銭。
レシート。
番号札。
全部、普通だった。
女は番号札を持って戻ってくる。
「名前、聞かれなかった」
「聞かれないよ」
「どこから来たかも」
「聞かれない」
「家族がいるかも」
「聞かれない」
「怪我してるかも」
直人は女を見る。
「それは、必要なら俺らが気にする」
女が黙った。
店は、彼女の人生を引き受けなかった。
ただ注文を受けた。
◇
午前十時四十一分。
番号が呼ばれた。
女が受け取りに行く。
包み紙に入ったハンバーガー。
トレーに載っている。
席へ戻る。
包みを開く。
湯気はほとんど見えない。
それでも温かかった。
女は一口食べた。
長く噛んだ。
「おいしい?」
高校生が聞く。
女は頷いた。
それから、少し泣いた。
誰も慰めなかった。
水を置く人がいた。
ティッシュを差し出す人がいた。
女は自分で涙を拭いた。
◇
午前十時四十八分。
「私、ここにいていいんですか」
女がもう一度聞いた。
今度はカウンターではなく、直人たちへだった。
直人は店内を見る。
三週間前、自分も似たことを考えた。
許可された記憶はない。
ただ、注文して。
座って。
延長して。
暮らし始めた。
「俺には、いていいって許可する権利はない」
女の顔が曇る。
直人は続けた。
「でも、追い出す権利もない」
美咲が隣の空いている椅子を引いた。
「荷物、そこなら通路に出ないよ」
女は自分の小さなバッグを、その椅子の下へ置いた。
一度位置を直す。
通路には出ていない。
それから、残りのハンバーガーを食べた。




