第66話 連れて帰る人
二十四日目、午前九時二十六分。
「人がいる」
高校生が言った。
窓際にいた全員が顔を上げた。
「どこ」
「向こう。青い車のところ」
直人も立つ。
駐車場の外。
道路を挟んだ先。
青い軽自動車の陰から、顔が半分だけ出ていた。
人だった。
生きている人だった。
◇
女だった。
年齢は分からない。
こちらを見ている。
PANDEMONIUMの看板を見ているのか、中の人間を見ているのかも分からない。
「呼ぶ?」
高校生が聞いた。
直人は答えかけて、止まった。
昨日の駐車場が戻ってくる。
二十メートル。
十メートル。
五メートル。
「大声はまずい」
黒瀬が言った。
美咲が紙を持ってきた。
太いペンで書く。
《中に入れます》
窓へ貼った。
女は動かなかった。
◇
午前九時三十三分。
女が少しだけ車の陰から出た。
片手に金属の棒を持っている。
服は汚れていた。
髪も乱れている。
ただ、立っている。
こちらへ来ようとはしない。
高校生が紙の下へもう一枚貼った。
《水・食事あり》
「それ、誘導しすぎじゃない?」
美咲が言った。
高校生が振り返る。
「でも本当じゃん」
「本当だけど」
直人は窓の向こうを見る。
「来るかどうかは、向こうが決める」
高校生は少し考えて、頷いた。
◇
午前九時四十一分。
女が道路へ一歩出た。
止まる。
左右を見る。
戻る。
「怖いんだ」
誰かが言った。
直人は、自分の手を見た。
昨日までなら、その一歩の重さを分からなかったかもしれない。
店から道路を眺めている側には、数メートルしかない。
外にいる側には違う。
「迎えに行く?」
灰色のリュックの女が聞いた。
黒瀬はすぐには答えなかった。
「本人が来たいなら、途中まではありだと思う」
「じゃあ聞かないと」
どうやって。
◇
午前九時四十七分。
美咲が紙を書き直した。
《ここへ来たいですか?》
その下に、大きく二つ。
《○ ×》
高校生が吹き出した。
「アンケートみたい」
「声届かないんだから仕方ないでしょ」
窓へ出す。
女が見た。
しばらく動かなかった。
やがて、棒を持っていないほうの手で、大きな丸を作った。
店内の空気が変わった。
「行く」
黒瀬が言った。
「俺も」
直人も言った。
怖かった。
昨日より、はっきり怖かった。
それでも立った。
◇
午前九時五十二分。
自動ドアの前。
「入口まで引っ張ってくるんじゃない」
美咲が言った。
「分かってる」
「嫌だって言ったら?」
「戻る」
「途中で変わっても?」
黒瀬が答えた。
「戻る」
それで出た。
◇
外の空気は、昨日と同じだった。
同じなのに、身体が先に固くなる。
駐車場に二体。
入口から遠い。
黒瀬と直人は車の陰を進む。
道路手前まで来た。
女はこちらを見ている。
「聞こえますか」
黒瀬が声を抑えて言った。
女が頷く。
「店まで一緒に行けます。来ますか」
「……行きたい」
初めて声を聞いた。
掠れていた。
「歩けますか」
「歩ける」
「走るのは」
女が少し迷う。
「少しなら」
黒瀬は頷いた。
「じゃあ、あなたの速さで行く」
◇
午前九時五十五分。
三人で道路を渡った。
女を真ん中にしなかった。
黒瀬が前。
直人が少し後ろ。
女は二人の間ではなく、自分で歩ける位置を選んだ。
途中で一度止まった。
ゾンビが道路の奥から出てきたからだ。
「戻りますか」
黒瀬が聞く。
女はPANDEMONIUMを見る。
それからゾンビを見る。
「行く」
「分かった」
車の陰へ回る。
遠回りする。
誰も腕を掴まなかった。
◇
午前十時一分。
駐車場へ入った。
女の呼吸が速い。
入口は見えている。
渾沌が自動ドアの向こうを横切った。
こちらを見たようにも見えた。
出てこない。
黒瀬が言う。
「あと少し」
女が止まった。
「待って」
二人も止まる。
「どうしました」
「中に……人、いるんですよね」
「いる」
「たくさん?」
「それなりに」
女は店を見る。
「私、入っていいの」
直人は答えた。
「俺たちが決めることじゃない」
女が直人を見る。
「店は?」
「客として入るなら、たぶん普通に」
「客」
女は、その言葉を確かめるように繰り返した。
◇
午前十時三分。
自動ドアの前まで来た。
センサーが反応する。
ドアが開く。
冷たい空気。
油の匂い。
明るい照明。
秩序がカウンターから顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
女は入らなかった。
一歩手前で止まった。
直人も黒瀬も待った。
秩序は急かさない。
「いらっしゃいませ」と二度目も言わない。
ただ、カウンターにいる。
女が振り返った。
外を見る。
それから、もう一度店内を見る。
自分で一歩、踏み込んだ。
自動ドアが背後で閉じた。
誰も彼女を連れて入らなかった。
彼女が入った。




