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第65話 五分の外


二十三日目、午前十時十二分。


直人は紙カップを持ったまま、動けずにいた。


コーヒーはもう冷め始めている。


窓の外では、渾沌がゾンビを一体、駐車場の端へ投げた。


すぐ店内へ戻ってくる。


「おまたせー!」


その声に、直人の指が震えた。


カップの蓋から一滴こぼれた。


◇


「五分くらいだったな」


黒瀬が言った。


「何が」


「最後。駐車場」


直人は時計を見る。


九時三十五分に動くと決めた。

九時三十八分に飛び出した。

九時三十九分には店内にいた。


実際には、もっと短い。


「嘘だろ」


「時計はそうなってる」


直人には二十分くらいに感じた。


一体がこちらを向くまで。

車の陰から次の車へ移るまで。

自動ドアが開くまで。


全部が長かった。


◇


午前十時二十六分。


美咲が濡らしたタオルを持ってきた。


「顔、拭いたら」


「汚れてる?」


「すごい」


頬を拭く。


灰色の汚れが付いた。


汗も混じっている。


「三週間ここにいて、こんな汗かいたの初めてかも」


「洗濯の日は?」


「あれは暑かっただけ」


「今日は?」


直人は答えなかった。


怖かったからだ。


言葉にすると、また駐車場が近くなる気がした。


◇


午前十時四十三分。


灰色のリュックの女は、母親の隣に座っていた。


薬袋はテーブルの中央にある。


二袋。


たったそれだけを取りに行った。


「家、どうだった?」


母親が聞いた。


女は少し黙った。


「変わってなかった」


「そう」


「でも、変だった」


「何が?」


「変わってないのが」


母親はそれ以上聞かなかった。


女も父の靴のことを言わなかった。


直人は少し離れた席で、その会話を聞いていた。


外へ出ると、持って帰る物以外も増える。


記憶とか。


言わないこととか。


◇


午前十一時七分。


高校生が駐車場を見ていた。


「もう少し減ってる」


誰も立たなかった。


「今なら外出やすそうだけど」


誰も立たなかった。


昨日なら、洗剤が足りないとか、電池が欲しいとか、何か思いついたかもしれない。


今日は違った。


店内には水がある。

食べ物がある。

トイレがある。

冷蔵庫も電子レンジもある。


足りない物は、いくらでもある。


それでも今すぐ取りに行くほどではなかった。


「今日はもういい」


直人が言った。


黒瀬も反対しなかった。


◇


正午。


注文番号が呼ばれた。


客が立つ。


トレーを受け取る。


ドリンクバーでは氷が落ちる。


子どもが紙に絵を描いている。


誰かが電子レンジを使う。


誰かが多目的トイレへタオルと着替えを持っていく。


いつもの生活だった。


直人は、それを見ているだけで肩の力が抜けるのを感じた。


三週間かけて作った暮らし。


それは安全そのものではない。


ただ、恐怖が薄くなるだけの時間が、ここにはあった。


外にはなかった。


◇


午後一時十四分。


直人は眠ろうとした。


目を閉じる。


駐車場が出てくる。


二十メートル。


十メートル。


五メートル。


自動ドア。


目を開けた。


天井の照明。


油の音。


「いらっしゃいませ」


秩序の声。


ここだ。


直人は息を吐いた。


もう一度、目を閉じる。


◇


午後二時三分。


目が覚めた。


四十九分眠っていた。


駐車場を走った時間より、ずっと長い。


それなのに何も覚えていない。


起き上がる。


黒瀬がテーブルで地図を見ていた。


「また行くのか」


直人が聞く。


「今日は行かない」


「じゃあ何見てる」


「次に必要になったときのため」


直人は隣へ座った。


地図を見る。


怖い。


それでも、もう見ないとは思わなかった。


◇


午後二時十七分。


窓の外に一体いる。


店の中では、誰かが笑っている。


外へ出たのは数十分。


本当に危険だったのは、そのうち何分だったのだろう。


五分か。


もっと短いかもしれない。


それでも直人の中では、この三週間のどの日より濃く残っていた。


時間は同じ速さで進む。


怖さだけが、同じ速さではなかった。

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