第63話 薬を取りに
二十三日目、午前七時四十八分。
「今日、行く」
灰色のリュックの女が言った。
窓の外は曇っていた。
雨はない。
風も弱い。
駐車場には三体。
道路の向こうに一体。
昨日より少ない。
黒瀬が時計を見る。
「八時半」
女が頷いた。
「私も行く」
直人が言う。
「俺も」
黒瀬は地図を畳んだ。
三人になった。
◇
午前八時十一分。
持っていく物を並べる。
リュック。
水。
懐中電灯。
バール。
軍手。
タオル。
スマートフォン。
「薬の名前は?」
直人が聞いた。
女はスマートフォンに撮った薬袋の写真を見せた。
「同じのを持って帰る。予備は洗面所の棚」
「何個?」
「袋ごと。あれば全部」
「他の薬は?」
「持ってこない」
黒瀬が言う。
「目的を増やすな」
女は頷いた。
家には、服もある。
食べ物もある。
充電器もある。
写真もある。
今日は薬だけだった。
◇
午前八時二十八分。
美咲が入口まで来た。
「何時まで?」
「十時」
直人が答える。
「十時に戻らなかったら?」
「十一時まで待つ。その後は昨日決めた別経路を確認」
「誰が?」
眼鏡の男が手を挙げた。
「俺と高校生。外には出ない。窓から見える範囲と地図で確認」
高校生が嫌そうな顔をする。
「勝手に決められてる」
「昨日お前が手挙げただろ」
「そうだっけ」
「そうだよ」
少し笑った。
女の母親は笑わなかった。
「無理なら帰ってきなさい」
娘が言う。
「薬がなくても?」
「なくても」
「分かった」
本当に分かったかどうかは、誰にも分からなかった。
◇
午前八時三十一分。
自動ドアが開いた。
冷たい空気が入る。
秩序がカウンターから言った。
「いってらっしゃいませ」
三人が止まった。
直人は振り返る。
秩序は、次の客へ視線を移していた。
「ご注文をどうぞ」
女が小さく息を吐く。
「行こう」
三人は外へ出た。
◇
最初の一体は、駐車場の端にいた。
黒瀬が先頭。
女が真ん中。
直人が後ろ。
車の陰を使う。
三体を避ける。
道路へ出る。
店内から見ていた道路は、外から見ると広かった。
遮るものが少ない。
走れば音が出る。
歩けば時間がかかる。
「今」
黒瀬が言う。
三人で渡った。
向こう側へ着く。
直人は振り返らなかった。
◇
午前八時四十分。
住宅街へ入った。
急に静かになった。
車が斜めに止まっている。
玄関が開いた家。
道路に落ちた自転車。
カーテンだけが動く窓。
女が歩調を落とす。
「こっち」
自分の家が近づくほど、声が小さくなった。
角を曲がる。
一体いた。
制服姿だった。
こちらへ顔を向ける。
黒瀬が手を上げる。
止まる。
引き返す。
一本隣へ回る。
「近道は?」
直人が聞く。
「今の道」
「じゃあ遠回り」
女は頷いた。
自宅まで歩いて二十分。
その二十分は、もう地図の距離ではなかった。
◇
午前八時五十二分。
家が見えた。
女が止まった。
二階建て。
白い壁。
門扉が半分開いている。
「鍵は?」
「持ってる」
「中にいる可能性は」
女は答えなかった。
黒瀬が代わりに言う。
「あると思って入る」
玄関まで進む。
女が鍵を差す。
回らない。
もう一度。
「あれ」
「違う鍵?」
「いや」
女がドアノブを引いた。
開いた。
鍵は掛かっていなかった。
三人とも動かなかった。
◇
午前八時五十五分。
黒瀬が先に入った。
靴がある。
女物の靴。
男物の靴。
女がそれを見た。
「父の」
直人は何も言わなかった。
廊下。
居間。
誰もいない。
テレビは消えている。
テーブルの上に、飲みかけだったらしいマグカップがある。
中身は乾いていた。
女が見ないようにして、洗面所へ向かう。
「棚、ここ」
扉を開く。
歯ブラシ。
石鹸。
湿布。
体温計。
薬袋。
「あった」
声が震えた。
袋を取る。
写真と見比べる。
同じ名前。
二袋。
「これ」
リュックへ入れる。
目的は終わった。
◇
午前九時一分。
「帰る」
黒瀬が言った。
女は廊下の先を見ていた。
階段。
その横に、家族写真が掛かっている。
「一分だけ」
黒瀬は首を振った。
「何をする」
「父が……」
言葉が止まる。
直人は写真を見る。
「探す?」
黒瀬が直人を見る。
女は首を振った。
「今日は、薬」
自分で言った。
写真へ近づかなかった。
玄関へ戻る。
◇
午前九時五分。
外へ出た。
直人は、そこで初めてPANDEMONIUMの方向を見た。
建物は見えない。
住宅の屋根しかない。
店の照明も。
カウンターも。
クルーも。
ここにはない。
薬はある。
だから帰る。
三人は来た道を戻り始めた。
角を一つ曲がる。
黒瀬が止まった。
「待て」
前方の道路を、さっきはいなかった二体が歩いていた。
女がリュックの肩紐を握る。
中には薬がある。
目的は達成した。
帰還は、まだだった。




