第57話 帰らない洗濯物
十九日目、午前十時三十三分。
「戻れ!」
直人はガラスを叩いた。
声は届かない。
外では黒瀬がロープからタオルを外している。
美咲と灰色のリュックの女も、洗濯物を腕へ抱え込んでいた。
高校生が道路を見た。
角から出てきた二体は、もうこちらへ向きを変えている。
「気づいた」
眼鏡の男が言った。
誰に、とは言わなかった。
◇
黒瀬が何か叫んだ。
高校生が残っていたシャツを引っ張る。
洗濯ばさみが飛んだ。
一枚、アスファルトへ落ちる。
美咲が拾おうとした。
黒瀬が腕を掴んだ。
四人が店へ走る。
直人は息を吐いた。
「来る」
だが、四人は入口へまっすぐ来なかった。
道路の反対側から、もう三体が出てきた。
黒瀬が進路を変える。
駐車場の端へ。
「何してんだよ」
眼鏡の男が立ち上がった。
自動ドアの向こうを、四人が横切っていく。
店から離れる方向へ。
◇
午前十時三十六分。
見えなくなった。
それだけだった。
誰も追いかけなかった。
直人は入口まで行った。
自動ドアが開く。
冷たい空気。
外へ一歩出る。
「直人」
眼鏡の男が呼んだ。
「見てくる」
「一人で?」
直人は止まった。
店内を見る。
子どもがいた。
美咲がいないことに、まだ泣いてはいない。
灰色のリュックの女の母親も、窓を見ている。
ここに残る人間もいる。
「……やめる」
直人は戻った。
ドアが閉じた。
◇
午前十時四十二分。
「クルーに頼めないの?」
誰かが言った。
直人はカウンターを見る。
秩序が客へトレーを渡していた。
「商品をお受け取りください」
厨房では渾沌がポテトを揚げている。
ぱむちゃんが客席を歩いている。
彼らなら、外のゾンビをどうにかできる。
少なくとも、直人たちよりずっと簡単に。
そのことを、もう全員が知っている。
「頼んだら行ってくれるのかな」
眼鏡の男が言った。
誰も答えなかった。
クルーが強いことと、人間が外へ出るたび迎えに来ることは、同じではない。
直人はカウンターへ行かなかった。
◇
午前十時五十分。
八分。
時計を見るたび、数字だけが増えた。
「裏から回ってるんじゃない?」
「たぶん」
「たぶんって」
「じゃあ追う?」
誰も動かない。
追えば一人増える。
戻ってくるかもしれない四人を探しに行って、五人目が帰れなくなるかもしれない。
待てば、何もしない時間が増える。
どちらも嫌だった。
子どもが直人の服を引いた。
「ママ、まだ?」
「……まだ」
大丈夫、とは言わなかった。
◇
午前十一時二分。
二十分を越えた。
灰色のリュックの女の母親が立ち上がった。
「私が見てくる」
「駄目です」
直人が即答した。
「娘が外にいるのよ」
「だからって」
「じゃあ誰が行くの」
直人は黙った。
言える答えがなかった。
眼鏡の男が、拾ってきた市街地図を広げる。
「こっちへ逃げたなら、この建物の裏を回って戻れる」
「何分?」
「走れば五分。でもゾンビ避けたら分からない」
「十一時十五分まで待つ」
直人が言った。
「それで戻らなかったら?」
「二人で見に行く」
「誰が」
「俺と……」
眼鏡の男が手を挙げた。
「俺」
決まった。
正しいかどうかではなく、待つ時間の終わりだけが決まった。
◇
午前十一時九分。
自動ドアが開いた。
全員が立った。
黒瀬だった。
両腕に濡れた服を抱えている。
その後ろから高校生。
灰色のリュックの女。
最後に美咲。
「ママ!」
子どもが走った。
美咲がしゃがんで受け止める。
「ごめん、ごめん」
直人は力が抜けて、椅子へ座った。
「どこ行ってたんだよ」
眼鏡の男が言う。
黒瀬が洗濯物をテーブルへ置いた。
「裏の住宅の塀沿い。戻る道に三体いた」
「だったら洗濯物捨てろよ」
「半分は捨てた」
黒瀬の腕にある服を見る。
「これ持って逃げたの?」
「途中で捨てる暇なかっただけだ」
高校生が息を整えながら言う。
「俺の靴下、片方ない」
誰も笑わなかった。
◇
午前十一時二十七分。
床に濡れた服が置かれていた。
回収できたもの。
戻らなかったもの。
美咲は子どもの髪を撫でている。
灰色のリュックの女は母親に怒られていた。
「もう少し、で残ったんでしょ」
「うん」
「洗濯物なんて捨てなさい」
「うん」
返事だけは素直だった。
直人は時計を見る。
三十八分。
外へ出た四人が戻るまでにかかった時間。
昨日までなら、三十八分はポテトを食べたり、洗濯したり、眠ったりする時間だった。
今日は違った。
何もできずに待つだけで、三十八分を使った。
カウンターから番号が呼ばれる。
誰かが立ち上がり、商品を取りに行く。
PANDEMONIUMでは、その三十八分のあいだも通常営業が続いていた。
洗濯物は何枚か帰らなかった。
人間は全員、帰ってきた。
それで十分だと、今日は誰も言葉にしなかった。




