第55話 ぱむ
十八日目、午後七時二十一分。
高校生の少年が、紙コップを落とした。
空だった。
ころころと床を転がり、テーブルの脚に当たって止まる。
ぱむちゃんが歩いてきた。
紙コップの前で止まった。
「ぱむ」
少年が振り返る。
「あ、ごめん」
拾う。
「捨てろって?」
「ぱむ」
「はいはい」
ゴミ箱へ持っていった。
直人は何となく、そのやり取りを見ていた。
◇
午後七時四十六分。
美咲の子どもが色鉛筆を一本、床へ落とした。
ぱむちゃんが近くを通る。
「ぱむ」
「あ」
子どもが拾った。
「ありがと」
「ぱむ」
高校生が言った。
「やっぱ『落ちてるよ』って意味じゃん」
直人も、そうかもしれないと思った。
三日目にも、ぱむちゃんは子どもの靴下の前で「ぱむ」と言った。
紙コップ。
色鉛筆。
靴下。
三つ揃うと、規則に見えた。
「ぱむ、って『落としたよ』なのかな」
美咲が言う。
子どもは首を振った。
「ちがうよ」
「じゃあ何?」
「ぱむは、ぱむ」
高校生が笑った。
「それ答えになってないだろ」
◇
午後八時十三分。
眼鏡の男が試した。
自分のボールペンを、わざと床へ置いた。
「おい」
黒瀬が眉を寄せる。
「実験」
「やめろよ」
ぱむちゃんが向こうから歩いてくる。
全員が少し黙った。
ボールペンの横を通る。
止まらない。
「……あれ」
眼鏡の男が言った。
ぱむちゃんは数歩先で、厨房のほうを見た。
「ぱむ!」
ちょうど番号が呼ばれた。
客がカウンターへ向かう。
「今のは『できたよ』?」
「じゃあさっきのは?」
「紙コップ捨てろ?」
「色鉛筆拾え?」
「全部違う意味?」
「同じ音で?」
「犬だって鳴き方で違うだろ」
黒瀬が少年を見る。
「犬扱いすんな」
「あ、そっか」
ぱむちゃんはもう厨房の前にいた。
◇
午後九時二分。
今度は直人が呼ばれた。
「七十二番のお客様」
立ち上がろうとすると、足元の充電ケーブルが椅子に絡んだ。
「うわ」
ほどこうと屈む。
ぱむちゃんが来た。
「ぱむ」
「待って、今行く」
直人はケーブルを外した。
ぱむちゃんを見る。
「受け取りに行け、ってこと?」
ぱむちゃんが傾く。
「ぱむ」
「……そうだよな」
自分で聞いて、自分で答えたことに気づいた。
ぱむちゃんは何も肯定していない。
直人が勝手に文章へ直しただけだった。
◇
午後十時三十四分。
子どもが昨日の紙飾りを眺めていた。
ぱむちゃんが横を通る。
「ぱむ」
子どもが顔を上げた。
「きのう、たのしかったね」
「ぱむ」
美咲が微笑む。
「『楽しかったね』って言ってるのかな」
「ちがうよ」
子どもがまた言った。
「分かるの?」
「わかんない」
「じゃあなんで違うの」
子どもは少し考えた。
「わたしが、たのしかったの」
直人は紙飾りを見る。
ぱむちゃんが誕生日をどう思ったのか。
昨日の「ぱむ」が何だったのか。
誰にも分からない。
楽しかったのは子どもだ。
それだけは分かる。
◇
午後十一時十九分。
入口近くで、灰色のリュックの女が母親の毛布を直していた。
ぱむちゃんが通る。
「ぱむ」
女が顔を上げる。
「寒くないかって?」
老婆が笑った。
「違うんじゃない?」
「じゃあ何だろうね」
「ぱむ、でしょ」
二人で笑った。
ぱむちゃんは止まらず、そのまま行った。
◇
午後十一時五十七分。
眼鏡の男のボールペンは、まだ床にあった。
「忘れてた」
本人が拾う。
高校生が言った。
「ぱむちゃん、教えてくれなかったな」
「最初から俺が置いたの見てたんじゃないか」
「だから?」
「知らん」
直人は少し笑った。
十八日間、ぱむちゃんの「ぱむ」を何度も聞いた。
気づけ。
こっち。
ありがとう。
できたよ。
危ない。
楽しい。
人間側が勝手につけた字幕なら、いくらでもあった。
たぶん、その中には当たっていたものもある。
外れていたものもある。
どれがどちらかは分からない。
ぱむちゃんが客席を横切る。
直人の横で一度だけ止まった。
「ぱむ」
直人は返事をしかけた。
何か意味を探しかけた。
やめた。
「ぱむ」
同じ音を返してみた。
ぱむちゃんは少し傾いた。
それから、厨房のほうへ歩いていった。
意味が通じたのかは、分からなかった。
分からないままで、会話だけが一回あった。




