第54話 ぱむちゃんの歯
十八日目、午前七時二十六分。
「ぱむちゃん、歯みがいた?」
美咲の子どもが聞いた。
ぱむちゃんが止まった。
「ぱむ」
直人も止まった。
昨日、五歳になったばかりの子どもは、多目的トイレで歯を磨いてきたところだった。
手には自分の歯ブラシを持っている。
「ぱむちゃんも、みがかないと虫歯になるよ」
ぱむちゃんが少し傾いた。
子どもも傾く。
それから、ぱむちゃんの顔をじっと見た。
「……歯、どこ?」
直人は吹き出した。
◇
近くで見ると、本当にない。
黒い楕円の目が二つ。
片方には黄色い星。
その下にはレタスやチーズやパティが重なっている。
口もない。
当然、歯も見えない。
「食べないからいらないんじゃない?」
高校生の少年が言った。
「でもバーガーだよ」
「バーガーに歯はないだろ」
「ぱむちゃんは歩くよ」
少年が黙った。
「それ言われるとな」
ぱむちゃんは二人を見上げている。
「ぱむ」
説明はなかった。
◇
午前九時十四分。
子どもがまた、ぱむちゃんを見つけた。
今度は客席の下だった。
ぱむちゃんは落ちた紙片を拾おうとしている。
「あ」
子どもがしゃがむ。
「ついてる」
赤い具材の端に、小さな糸くずが絡んでいた。
昨日の紙飾りを作ったときのものらしい。
子どもが指を伸ばす。
「待って」
美咲が止めた。
「勝手に触らない」
子どもは手を引っ込めた。
「ぱむちゃん、取っていい?」
ぱむちゃんは少し動いた。
近づいたのか、ただ向きを変えただけなのか分からない。
子どもはもう一度聞いた。
「これ」
糸くずを指す。
ぱむちゃんはその場に止まった。
「ぱむ」
子どもがそっと摘まんだ。
糸くずが取れた。
「とれた」
ぱむちゃんが一度跳ねた。
◇
それから妙なことが始まった。
子どもはぱむちゃんを見るたび、何かついていないか確認するようになった。
床を歩いたあとの足。
バンズの端。
具材の隙間。
もちろん、毎回汚れているわけではない。
むしろ、ほとんど何もついていない。
二週間以上ずっと店内を歩き回っているのに、ぱむちゃんもクルーと同じように妙にきれいだった。
それでも、ときどき紙片や埃が触れていることはある。
そんなときだけ、子どもは聞いた。
「取っていい?」
「ぱむ」
返事の意味は、直人には分からない。
子どもには分かっているようだった。
◇
午後一時三十七分。
「歯ブラシ使わないの?」
高校生がからかった。
「歯ないから」
「朝は磨くって言ってたじゃん」
「ないものはみがけない」
五歳児に正論で返され、少年が負けた。
子どもは代わりに、小さなハンカチを取り出した。
「これなら?」
ぱむちゃんの足元を指す。
「拭くの?」
「うん」
美咲が言った。
「嫌がったらやめるんだよ」
「うん」
子どもはぱむちゃんの前にハンカチを見せた。
「ふく?」
ぱむちゃんはハンカチを見る。
子どもを見る。
少しして、片足を上げた。
「上げた!」
「そういう意味なのか?」
直人が言う。
「上げたもん」
子どもは足の裏を一度だけ拭いた。
反対側も。
ぱむちゃんは逃げなかった。
終わると、子どもが言う。
「はい、おしまい」
「ぱむ!」
ぱむちゃんは跳ねて、そのまま客席の向こうへ歩いていった。
◇
午後四時五十分。
直人が外から戻ると、子どもが自分の荷物箱を整理していた。
昨日の紙飾り。
色鉛筆。
小さなハンカチ。
「それ、ぱむちゃん用になったの?」
直人が聞く。
「ちがうよ」
「違うんだ」
「わたしの。ぱむちゃんにも使うの」
その区別が妙にちゃんとしていた。
ぱむちゃんの物にしたわけではない。
ぱむちゃんを飼っているわけでもない。
ただ、汚れていたら少し拭く。
糸くずがついていたら、聞いてから取る。
それだけだった。
◇
午後六時十二分。
ぱむちゃんがテーブルの横を通った。
子どもが顔を上げる。
今日は何もついていない。
「だいじょうぶ」
何が大丈夫なのか、誰も聞かなかった。
「ぱむ」
ぱむちゃんはそのまま歩いていく。
直人は、子どもの荷物箱を見た。
昨日の紙飾り。
色鉛筆。
小さなハンカチ。
ぱむちゃんは、もう客席の向こうにいた。




