第52話 二週間目
十七日目、午前六時五十二分。
直人は、多目的トイレの鏡を見ていた。
「誰だこれ」
顎を撫でる。
髭が伸びている。
毎日見ていたから気づかなかった。
頬にも薄く広がり、首元にも少し残っている。
髪は耳にかかり始めていた。
服は昨日と同じではない。
それでも、洗って乾かして着回しているうちに、どれが何日目なのか分からなくなった。
鏡の中の自分は、初日にここへ逃げ込んだ男とは少し違っていた。
◇
「髭すご」
席へ戻ると、高校生の少年が言った。
「お前も髪伸びてるぞ」
「俺は伸ばしてるだけ」
「二週間前から?」
「今日からそういうことにする」
美咲が笑った。
彼女の髪も、最初の頃よりまとめ方が雑になっている。
灰色のリュックの女は母親の前髪を小さな鋏で整えていた。
壁際のメモには、まだ、
髪切れます お礼はコーヒーでも可
と残っている。
「切ってもらえば?」
「そのうち」
直人は答えた。
そのうち。
明日があることを前提にした言葉だった。
◇
午前八時十九分。
黒瀬が戻ってきた。
昨日のカイロは使い終わっていた。
「結局使ったんですね」
「朝、手袋片方しかなかったからな」
「どうだった?」
高校生が聞く。
「普通のカイロ」
「最後の一個なのに感想それ?」
「カイロに何期待してんだ」
黒瀬の頬にも髭がある。
目の下には薄い隈が残っていた。
外へ出る回数が多いぶん、靴も汚れている。
直人はそこで、カウンターへ目を向けた。
秩序がいた。
◇
「……変わってないな」
直人が呟いた。
「何が?」
美咲が聞く。
「秩序さん」
初日に見たときと同じ制服。
髪の長さも、整い方も同じに見える。
目の下に隈はない。
制服に染みも皺も見当たらない。
姿勢も、声も変わらない。
「ご注文をどうぞ」
二週間以上前と同じ調子だった。
直人は渾沌を探した。
厨房から出てくる。
「ポテトできたよー!」
こちらも同じだった。
髪が伸びたようには見えない。
服がくたびれた様子もない。
疲れて動きが鈍った様子もない。
「着替えてるんじゃない?」
美咲が言う。
「そりゃ着替えるだろうけど」
「髪も切ってるとか」
「いつ?」
二人とも黙った。
見ていない時間はある。
バックヤードもある。
だから、何もしていないとは言えない。
ただ、変化したところを一度も見ていなかった。
◇
午前十一時四分。
高校生がテーブルに突っ伏して寝ていた。
昨日は元気だった。
今日は眠いらしい。
美咲も欠伸をした。
黒瀬はコーヒーを飲みながら靴下を乾かしている。
直人は頬の髭をまた触った。
人間側には、日付が残る。
髭になる。
髪になる。
服の傷みになる。
目の下の隈になる。
食事が尽きなくても、暖房が止まらなくても、身体は昨日を持ち越している。
◇
午後二時十六分。
直人はカウンターへ行った。
「チーズバーガー、ピクルス抜きで」
「かしこまりました」
秩序が端末を操作する。
直人は、その手を見た。
爪もきれいだった。
傷もない。
二週間以上、レジに立ち、トレーを運び、ゾンビを店外へ排除し、何度も何度も客を相手にしてきた手には見えなかった。
もちろん、同じ個体がずっと働いていると証明できるわけではない。
直人には、まだ分からないことのほうが多い。
「以上でよろしいでしょうか」
「はい」
会計を済ませる。
席へ戻る途中、窓に自分の姿が映った。
伸びた髭。
少し長くなった髪。
くたびれた服。
その奥に、カウンターの秩序が映っている。
初日から変わらないように見える姿で。
二週間という時間は、同じ店の中を流れていた。
ただ、人間にだけ、よく見えた。




