第51話 ひとつだけ
十六日目、午後四時十八分。
「これ、誰が使う?」
黒瀬がテーブルの上へ置いた。
透明な袋に入った、新品のカイロだった。
一個だけ。
「どこにあったの?」
直人が聞く。
「ドラッグストアの棚の下。落ちてた」
十個入りでも箱でもない。
一個。
店内は暖房が効いている。
だから、なくても死なない。
それでも全員が一度、その小さな袋を見た。
◇
「おばあちゃんでいいんじゃない?」
美咲が言った。
灰色のリュックの女の母親は、窓から離れた席で毛布を膝に掛けていた。
「私は大丈夫よ」
本人が先に言った。
「でも冷えやすいでしょ」
「店の中は暖かいもの」
高校生の少年が手を挙げる。
「じゃあ俺」
「何に使うの」
「欲しい」
「理由になってない」
「欲しいは理由だろ」
少年は本気だった。
雪の日に外へ出るとき、ポケットに入れてみたいらしい。
眼鏡の男が言った。
「外出用に取っとけば?」
「誰の?」
「必要になった人の」
「必要になったとき、誰が決めるんだよ」
誰も答えなかった。
◇
直人はカイロを手に取った。
軽い。
今なら、誰か一人に渡せる。
「じゃあ……」
言いかけて、止まった。
全員が直人を見た。
いつの間にか、こういうとき直人が答える空気ができていた。
それが嫌だった。
「俺が決めることじゃない」
「じゃあ多数決?」
少年が言う。
「それも違う気がする」
「面倒くさ」
黒瀬が椅子へ座った。
「使いたい奴が三人いるなら、三人で決めりゃいいだろ」
「今は二人じゃない?」
「ばあちゃん、少年、温存派」
「温存派って人じゃないじゃん」
少し笑いが起きた。
でもカイロはまだテーブルの上だった。
◇
午後五時三分。
話は妙な方向へ進んだ。
「使わないのが一番もったいなくない?」
美咲が言う。
「必要なときにないほうが困る」
眼鏡の男が返す。
「必要ってどこから?」
「外に一時間以上出るとか」
「じゃあ五十分なら?」
「そういう話じゃない」
少年がカイロを指でつつく。
「俺、今日使いたい」
「なんで今日?」
「新品のカイロ、揉むの好きだから」
「そんな理由で最後の一個使う?」
「最後だから使っちゃいけないって誰が決めたの」
直人は黙って聞いていた。
必要。
欲しい。
取っておく。
どれも間違いではない。
一つしかないから、同時には成立しないだけだった。
◇
午後六時十二分。
結局、カイロは誰にも渡らなかった。
ただし、備蓄箱にも入らなかった。
連絡メモの横に置いた。
その下に紙が一枚。
使う人は声かけて
それだけだった。
「これ決まったの?」
少年が聞く。
「決まってない」
美咲が答えた。
「じゃあ俺使っていい?」
「声かけたから、話そう」
「また?」
「また」
少年はカイロを置き直した。
◇
午後八時四十七分。
入口の自動ドアが開いた。
冷気と一緒に、黒瀬が戻ってきた。
さっきまで店内にいたのに、いつの間にか駐車場を見に行っていたらしい。
右手を擦っている。
「手袋どうしたの」
「片方破れた」
美咲がカイロを見る。
少年も見る。
眼鏡の男も見る。
黒瀬は気づいていない。
少年が先にカイロを取った。
直人は何も言わなかった。
少年は袋を開けなかった。
黒瀬の前へ置く。
「使う?」
「何で」
「手、冷たいんでしょ」
「店入ったからもう平気」
「じゃあいらない?」
黒瀬は少し考えた。
「次また外出るなら使う」
「いつ?」
「朝」
少年はカイロを連絡メモの横へ戻した。
「じゃあ朝まで取っとく」




