第44話 名前を書く場所
十二日目、午前九時七分。
「俺、薬局のほう見てくる」
黒瀬が言った。
直人は冷蔵庫の上に置かれた紙を見た。
「何時くらい?」
「昼までには戻る」
「じゃ、書いといてください」
「何を」
直人はボールペンを渡した。
紙には三行あった。
美咲 店内
直人 店内
灰色リュック 母と店内
黒瀬が眉を寄せる。
「何だこれ」
「誰が外にいるか分からなくなるから」
「名簿?」
「いや」
直人は即答した。
「戻ったら消すやつ」
黒瀬は少し笑って、下へ書いた。
黒瀬 薬局 昼まで
◇
始まりは昨夜だった。
外へ出た男が戻らず、誰かが「まだ外だっけ」と言った。
三人が違う答えをした。
寝ている。
トイレにいる。
外へ行った。
結局、男は十分後に戻ってきた。
何も起きていなかった。
ただ、それで直人は思った。
人が増えた。
荷物も増えた。
眠る時間もばらばらになった。
店内にいないことと、見えないだけの区別がつきにくい。
だから紙を一枚置いた。
それだけだった。
◇
午前十時二十三分。
高校生の少年が紙を見た。
「俺も書くの?」
「外行くなら」
「名前、本名?」
直人は止まった。
「別に何でもいいんじゃない?」
「じゃあ高校生でいい?」
「分かれば」
少年は書いた。
高校生 向かいの店 十一時まで
その下へ、別の男が書く。
眼鏡 駐車場 すぐ戻る
美咲が見て笑った。
「雑」
「連絡できればいいんだよ」
住所はいらない。
年齢もいらない。
家族構成もいらない。
ここへ来た日も、前に何をしていたかも。
必要なのは、今どこにいるかだった。
◇
午前十一時。
新しく来た女が紙を見て言った。
「私も名前、登録したほうがいいですか」
「登録?」
「ここで暮らすなら」
直人は紙を見る。
店内にいる人間の名前らしきものが並んでいる。
確かに、そう見えなくもない。
「これは登録じゃないです」
「じゃあ何ですか」
「外に出るときのメモ」
「住んでる人の一覧じゃなくて?」
「違います」
直人はボールペンの尻で、黒瀬の行を指した。
「戻ってきたら消します」
女は少し考えてから頷いた。
「じゃあ、店にいるだけなら?」
「何も書かなくていいです」
◇
正午十二分。
黒瀬が戻った。
紙袋を一つ持っている。
「おかえり」
直人が言う。
「ただいま」
黒瀬は紙を見る。
「消すんだっけ」
「はい」
自分の行を一本の線で消した。
名簿なら、名前は残る。
この紙では、帰ってきた人間から消えていく。
そのほうが役に立った。
◇
午後二時四十分。
紙は冷蔵庫の上から壁際の小さなテーブルへ移された。
冷蔵庫を開けるたびに邪魔だったからだ。
テープで固定する者はいなかった。
店の壁に勝手に貼る必要もない。
紙とペンがあれば足りる。
「外行ってくる」
誰かが言う。
「書いといて」
それだけで通じるようになった。
PANDEMONIUMのクルーは、その紙を管理しない。
人数を数えない。
住民として登録しない。
外出許可も出さない。
人間たちが、戻ってこない誰かに気づくためだけに名前を書く。
そして帰ってきたら消す。
残すための名前ではなかった。
戻ってきたことを確かめるための名前だった。




