第4話 優先便
午前四時五十六分。
直人は、まだ暗い道路を走っていた。
助手席には常温品の箱。
昨日、翌朝へ残した荷物だった。
会社の通常運行は止まった。
今日は優先配送だけになる。
それでも、この箱だけはその前に届ける。
昨日、自分でそう約束した。
道路は妙に空いていた。
信号待ちでスマートフォンが震える。
《本日、鉄道各線で運休・減便》
次。
《救急要請が集中しています》
次。
《発熱・錯乱症状のある人物には近づかないでください》
直人は画面を伏せた。
青になる。
車を出す。
五時三十八分。
昨日の店が見えた。
シャッターは半分だけ開いている。
裏の搬入口へ回ると、若い店員が待っていた。
「よかった」
直人が車を降りるより先に言った。
「すみません、遅くなりました」
「いや、昨日の今日だから、来ないかと思ってました」
「約束したので」
二人で箱を下ろす。
店員が伝票を見る。
「これで今日も開けられます」
その言葉に、直人は少しだけ肩の力が抜けた。
昨日、全部は運べなかった。
でも残したものを、今日運んだ。
失敗を翌日へ押しつけただけではない。
繋がった。
「じゃあ、ここにサインを」
店員がペンを取った。
そのときだった。
店の表側で、何かが倒れる音がした。
金属。
続いて、短い悲鳴。
二人とも顔を上げた。
「何?」
店員が先に走った。
直人も後を追う。
表へ出る。
自転車が倒れていた。
その横に男がいる。
四十代くらい。
上着の前が開き、片方の靴がない。
男は店のガラスへ両手をついていた。
肩で息をしている。
「大丈夫ですか」
店員が近づく。
直人は、男の顔を見た。
赤い。
汗で髪が額へ張りついている。
昨日、道路の向こうで見た男を思い出した。
「待って」
直人が言った。
店員が振り返る。
その一瞬だった。
男が動いた。
速かった。
店員の腕を掴む。
「え」
引き寄せる。
口を開く。
直人は考える前に、男の肩を掴んだ。
引く。
間に合わない。
店員が叫んだ。
男の歯が、袖ごと前腕へ食い込んでいた。
「離せ!」
直人は男を蹴った。
男が転ぶ。
店員も尻もちをつく。
袖が裂けている。
血。
「中!」
直人は店員を立たせた。
二人で店へ入る。
扉を閉める。
鍵。
男が外からぶつかった。
ガラスが鳴る。
一回。
二回。
「何、あれ」
店員が震えている。
直人は答えなかった。
「腕、見せて」
傷。
深い。
血が流れている。
「洗うところは?」
「奥」
「洗って。石鹸ある?」
「ある」
「救急車呼びます」
スマートフォンを出す。
繋がらない。
もう一度。
繋がらない。
外では男がまだ扉を叩いている。
直人は店内を見る。
入口。
裏口。
厨房。
店員は一人。
「他に誰か来ます?」
「店長が、六時くらいに」
「連絡してください。表から入らないように」
店員が頷く。
直人は入口から距離を取った。
何が起きている。
高熱。
錯乱。
暴力。
昨日までニュースの単語だったものが、ガラス一枚の向こうにいる。
男が急に止まった。
俯く。
そのまま数秒。
倒れるのかと思った。
違った。
道路を走る人影へ顔を向けた。
男は扉から離れた。
走っていく。
「まずい」
直人は扉を開けなかった。
追えば止められるか。
分からない。
感染症なのか。
薬物なのか。
病気なのか。
何も分からない。
だから追えない。
でも、店員の傷は分かる。
血が出ている。
今やることはある。
「救急、もう一回かけます」
三度目で繋がった。
住所。
負傷者一名。
人に噛まれた。
相手は高熱らしい。
すでに現場を離れた。
聞かれたことだけ答える。
『到着まで時間がかかる可能性があります』
「どれくらいですか」
『現時点ではお答えできません』
直人は一瞬黙った。
時間が分からない。
いつ来るか分からない。
それでも電話は切れた。
店長が裏口から来た。
事情を説明する。
店は開けないことになった。
直人が運んだ箱は、厨房の隅に置かれている。
「せっかく持ってきてもらったのに」
店長が言った。
直人は箱を見る。
今日も開けられる。
さっき、そう言われた。
でも開かない。
荷物は届いた。
条件も守った。
それでも営業は成立しなかった。
「いえ」
直人は言った。
「閉めたほうがいいです」
自分の口から出た言葉が、少し意外だった。
会社へ戻る途中、ラジオをつけた。
同じような事例が複数報告されている。
噛みつき。
暴力。
高熱。
呼びかけへの反応低下。
原因は不明。
SNSでは別の言葉が流れていた。
信号待ちで、直人は画面を見た。
《ゾンビじゃん》
《これマジでゾンビ?》
《噛まれたら終わりってこと?》
直人は眉を寄せた。
ゾンビ。
雑すぎる。
何も分かっていないのに、名前だけが先に決まっている。
画面を閉じる。
会社へ戻ると、駐車場の車は昨日の半分ほどだった。
柴崎が入口にいた。
「遅かったな」
「ちょっとありました」
「事故?」
直人は答えようとして、言葉を選んだ。
「納品先で、人が噛まれました」
柴崎の顔から笑いが消えた。
「犬?」
「人に」
数秒、沈黙。
「……ニュースの?」
「たぶん」
「たぶんか」
「分からないので」
事務所では、主任が配送先一覧を三つに分けていた。
食品。
飲料。
衛生用品と医療関連。
それ以外。
「今日から、上三つ優先」
主任が言った。
「全部は行かない。行けるところだけでもない。必要度で決める」
直人は一覧を見る。
昨日、自分が一店舗だけ翌日へ残した。
今日は会社が、最初から運ばないものを決めている。
「相沢」
「はい」
「組める?」
直人はホワイトボードを見る。
人。
車。
荷物。
配送先。
昨日までと同じものが並んでいる。
でも、もう目的が違う。
全部を届けるためではない。
何を先に届けるかを決めるための表だ。
「やります」
ペンを取る。
最初の一本を引く。
その線の外側には、今日運ばれない荷物が残る。
直人はそれを見た。
消さなかった。




