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第3話 全部は運べない


五時四十分。


直人が事務所へ着いたとき、ホワイトボードの前に柴崎がいた。


「増えた」


挨拶より先だった。


欠勤。


昨日の五人に、さらに二人。


七人。


直人は鞄を置いた。


「車は?」


「ある」


「荷物は?」


「ある」


「動ける人」


柴崎が指を折る。


直人も数えた。


足りない。


昨日までとは違った。


時間をずらす。

積み替える。

戻り便を使う。

配送先へ相談する。


全部やっても、一台分が残る。


直人はホワイトボードへ線を引いた。


消す。


もう一度引く。


また消す。


「無理だな」


柴崎が言った。


直人は答えなかった。


電話を取る。


一軒目。


「本日の納品時間についてご相談がありまして」


二軒目。


三軒目。


昨日より相手の返事が遅い。


担当者が休んでいる。

店を開ける時間が分からない。

そもそも今日は営業するか決めていない。


動かせる条件を探しているのに、条件そのものが見えなくなっていた。


七時十分。


直人は配送先一覧の一番下へ印をつけた。


小さな飲食店。


在庫確認。


冷凍品は明朝まで持つ。


今日届かなければ営業不能、ではない。


電話する。


『はい』


いつもの担当者ではなかった。


「本日分の納品ですが、明日の朝一番へ変更できませんか」


沈黙。


直人は続けた。


「今日の営業分は、現在の在庫で足りると伺っています」


『足ります。でも明日の仕込みが』


「朝一番で持っていきます」


『何時ですか』


時間を答える。


『絶対ですか』


直人は口を開いた。


止まった。


昨日までなら、言えた。


大丈夫です。

必ず。

こちらで調整します。


今日は言えない。


「その予定で組みます。ただ、状況が変わればすぐ連絡します」


電話の向こうで、小さく息を吐く音がした。


『分かりました。それでお願いします』


「ありがとうございます」


電話を切る。


直人は店名の横へ書いた。


翌朝。


柴崎が見ていた。


「残したな」


「残しました」


「初めてじゃない?」


直人は考えた。


事故や故障で遅れたことはある。


でも朝の時点で、全部を運ばないと決めたことはなかった。


「たぶん」


一本を明日へ送ると、今日が収まった。


急にホワイトボードが静かになった。


八時。


便が出る。


九時。


一本遅れる。


十時。


別の配送先から電話。


『今日、店閉めることになったんで、来なくて大丈夫です』


直人は予定表を見る。


「分かりました」


一本、消える。


運べなかったのではない。


運ぶ必要そのものがなくなった。


空いた車へ別の荷物を載せる。


昼前には、朝より少し余裕ができていた。


柴崎が缶コーヒーを置く。


「変な日だな」


「何がです?」


「足りないのに、余った」


人は足りない。


車は余った。


荷物も一部残った。


配送先は一軒消えた。


それでも今日という一日は、完全には壊れていない。


直人は朝に残した一店舗の名前を見る。


全部は運べない。


でも、全部を今日運ぶ必要もなかった。


その二つは同じではない。


午後三時。


会社から全員へ連絡が出た。


翌日以降、出勤者を絞る。


通常運行はしない。


優先配送のみ。


直人は文章を二度読んだ。


「通常運行しないって」


柴崎が横から覗く。


「会社が言うんだな」


「そうですね」


「相沢さん、明日暇になる?」


「ならないと思います」


「だよな」


二人で笑った。


帰りの電車は空いていた。


駅前のスーパーは、昨日より棚が空いている。


直人は寄らなかった。


美咲から頼まれたものはない。


集合住宅へ戻ると、エントランスに人が集まっていた。


管理人。

住人が四人。

黒瀬もいる。


「何?」


直人が聞く。


黒瀬がエレベーターを指した。


「昼、三階の人がここで倒れた」


「救急車?」


「来た」


管理人が言う。


「高熱だったそうです。念のためエレベーターの使用を止めるか相談してまして」


直人は扉を見る。


閉まっている。


「消毒は?」


「一応しました」


「何で?」


管理人が答える。


直人はさらに聞く。


「倒れた人はどこ触りました?」


「そこまでは」


「同乗者は?」


「分かりません」


「何時です?」


「十二時前くらい」


情報が足りない。


だから決めにくい。


「分かるまで止めたほうがいいんじゃないですか」


直人が言うと、住人の一人が困った顔をした。


「うち、八階なんですよ」


別の高齢の女性も言う。


「階段はちょっと……」


黒瀬が壁にもたれたまま言った。


「乗りたくない人は階段。必要な人は乗ればいいんじゃない」


直人は黒瀬を見る。


「それだと人によって対応が違うだろ」


「違っていいだろ」


「危ないかもしれないんだぞ」


「だから俺は階段使う」


「そうじゃなくて」


直人は言葉を探した。


同じ建物なら、同じルールのほうが分かりやすい。


誰が何をするか決まっているほうが、事故は少ない。


けれど八階まで歩けない人もいる。


管理人が言った。


「今日は、必要な方だけ使う形にしましょう。明日また状況を見ます」


完全な答えではない。


直人にはそう見えた。


でも話は終わった。


黒瀬は階段へ向かう。


「お前も?」


「俺は階段」


「六階だろ」


「運動」


直人はエレベーターを見る。


それから階段を選んだ。


三階を過ぎるとき、踊り場の窓から道路が見えた。


救急車が一台止まっている。


そのそばで、男が二人の救急隊員に押さえられていた。


遠くて顔は見えない。


男は身体を大きくねじり、何度も腕を振った。


一人では押さえきれず、警察官が駆けてくる。


直人は足を止めた。


テレビで見た映像と似ていた。


高熱。


意識混濁。


強い興奮。


ニュースの言葉が、窓の向こうで動いている。


「直人」


上から黒瀬の声。


「行くぞ」


「うん」


直人は階段を上った。


家に入ると、美咲が玄関まで来た。


「遅かったね」


「下で話してた」


「エレベーターの?」


「知ってるの?」


「グループに来てた」


美咲はスマートフォンを見せる。


住人同士のメッセージが並んでいる。


使わない。

使う。

消毒したなら大丈夫。

分からないから怖い。


誰も同じ結論ではない。


「明日どうなるんだろうね」


美咲が言う。


直人は鞄を置いた。


会社も通常運行をやめる。


配送先も開くか分からない。


建物のエレベーターさえ、全員で一つの答えにならない。


今日、初めて一店舗分を残した。


それでも一日は終わった。


直人は窓の外を見る。


救急車はもういなかった。


道路には、いつもの信号だけが点いている。


食卓には、美咲が作った連絡先の紙が残っていた。


会社の鞄には、翌朝へ残した一店舗分の伝票が入っている。

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