第2話 まだ回る
朝、一本目の電話は、目覚ましより先に鳴った。
五時二十八分。
直人は枕元のスマートフォンを取る。
「はい」
『相沢さん、すみません』
声で分かった。
昨日まで出勤予定だった運転手だ。
『熱、出ました』
「何度です?」
『三十八度七分』
直人は起き上がった。
昨日の三人に、一人追加。
四人。
「分かりました。今日は休んでください」
『でも俺が休むと南二便が』
「それはこっちでやります」
電話を切る。
隣で美咲が布団をかぶったまま言った。
「また?」
「一人増えた」
「何人?」
「四人」
「会社、休みにならないの」
直人はシャツを着ながら答えた。
「四人なら、まだ回せる」
「何人なら回らないの?」
手が止まった。
考えたことがなかった。
「分からない」
「分からないんだ」
「やってみないと」
美咲が布団から目だけ出した。
「そういうところ、変だよね」
「何が」
「無理かどうか、無理になるまで調べるところ」
直人はネクタイを取った。
今日は締めなくていい。
「牛乳なくなりそう」
「帰り買う」
「あとティッシュ」
「分かった」
「ゼリーも」
「誰か具合悪い?」
「別に。なんとなく」
三つ、スマートフォンへ打ち込む。
牛乳。
ティッシュ。
ゼリー。
それから会社へ向かった。
六時二十一分。
ホワイトボードの前で、直人は昨日作った配車を全部消した。
昨日の正解は、今日には使えない。
柴崎が横で缶コーヒーを開ける。
「南二、死んだ?」
「担当が休みです」
「じゃ、俺?」
「それだと西三が消えます」
「だよな」
直人は配送先一覧を見た。
車はある。
荷物もある。
足りないのは人間だった。
昨日なら、便同士を組み替えた。
今日はそれでは足りない。
直人は電話を取った。
最初の配送先。
「いつもお世話になっております。今日の納品なんですが」
十五分遅らせてもらう。
次。
三十分。
次は午前便を午後へ。
一軒だけ断られた。
『昼の仕込みに使うんですよ』
「何時までなら間に合います?」
『九時半。九時半が限界』
九時半。
直人は時計を見る。
「分かりました。そこは変えません」
電話を切る。
柴崎が言った。
「客の時間まで動かすのか」
「動かせるところだけです」
「怒られた?」
「一軒」
「そりゃそうだ」
柴崎は笑った。
「でも昨日よりえげつないな」
「何がです?」
「昨日は荷物をパズルにしてた。今日は客までパズルに入ってる」
直人はホワイトボードを見る。
その言い方は、少し違うと思った。
客を動かしているわけではない。
聞いているだけだ。
何時なら困らないか。
どこまでなら変えられるか。
動かせない条件と、動かせる条件を分ける。
それだけだ。
七時四十八分。
一便目が出た。
八時十二分。
二便目。
九時二十六分。
九時半が限界だと言った店への荷物が着いた。
柴崎から写真が来る。
《4分残し》
直人は《了解》と返した。
その下にニュース通知が並んでいた。
《各地で救急要請が急増》
《一部医療機関、通常診療を制限》
《発熱患者の外出自粛を要請》
直人は通知をまとめて消した。
電話が鳴る。
配送先だった。
「はい、相沢です」
『午後にしてもらった便、もう一時間後ろでも大丈夫ですよ』
直人は少し驚いた。
「よろしいんですか?」
『こっちも人が二人休んじゃって。仕込み遅れてるんで』
「ああ」
向こうも同じなのだ。
「では、一時間後ろでお願いします」
電話を切る。
ホワイトボードを書き換える。
空いた時間へ別の便を差し込む。
また一つ、収まった。
昼。
社員食堂は昨日より空いていた。
椅子はある。
食事もある。
ただ、人が少ない。
テレビには駅前の映像が映っていた。
救急車。
警察官。
遠巻きに撮影する人たち。
音声は聞こえない。
誰かがテレビの音量を上げた。
『……搬送中に暴れる事例が複数報告されており、自治体では発熱や意識障害の症状がある場合……』
「怖いな」
柴崎が言った。
直人はカレーを食べながら午後便を確認していた。
「相沢さん」
「はい」
「お前んとこ、奥さん大丈夫?」
「元気です」
「買い物しといたほうがいいぞ。うちの近所、米なくなってた」
直人は顔を上げる。
「米?」
「みんな買ってる」
「なんで?」
「知らん。こういうとき買うんだろ」
直人には分からなかった。
米がなくなる根拠はない。
物流は動いている。
少なくとも、自分たちは今日も運んでいる。
「明日も届きますよ」
「明日も人が来ればな」
柴崎はそう言って、カレーを食べた。
午後五時四十分。
最後の便から完了報告が来た。
全件納品。
遅延三件。
時間変更七件。
欠配ゼロ。
直人は数字を見た。
四人休んだ。
それでも回った。
昨日より条件は悪かった。
なのに、昨日より多くのものを動かせた。
車だけではない。
荷物だけでもない。
時間は相談できる。
順番も変えられる。
相手にも事情がある。
条件というものは、最初から固定されているわけではない。
聞けば動くものもある。
直人は明日の欄を開いた。
欠勤予定。
五人。
一瞬、指が止まった。
昨日なら多いと思っただろう。
今は違った。
五人なら、五人用に組めばいい。
会社を出る。
スーパーへ寄った。
牛乳。
残り三本。
一本取る。
ティッシュ。
棚は半分空いていた。
一パック。
ゼリーの棚にはまだ十分あった。
桃味を取った。
レジには長い列ができていた。
前の客のかごには、水が六本入っている。
その前は米。
後ろの人はトイレットペーパーを二袋抱えていた。
直人のかごには、
牛乳。
ティッシュ。
ゼリー。
頼まれたものだけ。
スマートフォンが震える。
美咲からだった。
《帰り何時?》
《もう店》
《じゃあお願い》
《買った》
《早》
直人は少し笑った。
レジの上にある小さなテレビでは、また同じニュースをやっていた。
画面の端に赤い速報が出る。
《不要不急の外出を控えるよう呼びかけ》
列の誰かが舌打ちした。
直人は時計を見る。
明日は、いつもより三十分早く出たほうがいい。
家に帰ると、美咲がゼリーを見た。
「なんで桃?」
「指定なかったから」
「みかんがよかった」
「言ってよ」
「そこまで指定すると思わないじゃん」
直人は冷蔵庫へ牛乳を入れた。
「明日、五人休み」
「増えてるじゃん」
「うん」
「大丈夫なの?」
直人は少し考えた。
今日できたことを思い出す。
配送先の時間。
積み替え。
順番。
戻り便。
まだ動かせる条件はある。
「まあ、何とかする」
美咲は何も言わなかった。
その夜。
直人は昨日と同じ机で、明日の配車表を開いた。
外では、昨日より長くサイレンが鳴っていた。
けれど画面の中には、まだ空いている場所がある。
そこへ便を一本移す。
別の便を三十分ずらす。
五人いなくても。
まだ回る。




