第1話 明日の便
「一台、足りません」
午前六時十二分。
相沢直人は、事務所のホワイトボードから一本の線を消した。
配送車十二台。
稼働十一台。
欠勤二人。
遅刻一人。
数字だけ見れば、今日の便は崩れる。
けれど直人は、崩れる前の形をもう頭の中で組み替えていた。
「西三便の冷凍、何時まで動かせます?」
電話の向こうで、柴崎航平が少し黙った。
『積み込み済み。八時半なら余裕。九時越えると二軒目がきつい』
「じゃあ八時二十分出発。東一便の常温を半分だけ載せてください」
『半分?』
「A店は十時まで在庫があります。B店は九時で切れる。先にB店。A店は戻ってから」
『了解』
電話を切る。
隣の机から主任が顔を上げた。
「いける?」
「いけます。たぶん」
「たぶんか」
「全部、予定通りにはいきません。でも全部、届きます」
直人は次の電話を取った。
七時前には、足りなかった一台は、時間差と積み替えと二本の電話に姿を変えていた。
誰も増えていない。
車も直っていない。
それでも便は回る。
直人はこういう瞬間が好きだった。
足りない条件を数えて、動かせる条件を探す。
誰かが困る前に、困り方を小さくする。
問題には形がある。
形が分かれば、だいたい何とかなる。
八時四十七分。
柴崎から写真が届いた。
B店の搬入口。
積み上げられたケース。
親指を立てた自撮りの端に、店員が一人だけ写っている。
《間に合った》
直人は《了解》と返した。
その直後、別の通知が画面上部に出た。
《原因不明の高熱患者、都内で増加》
開かなかった。
仕事中だった。
昼休み。
食堂のテレビでも同じ話をしていた。
発熱。
意識混濁。
一部の患者に強い興奮状態。
画面の下には専門家の名前と、まだ調査中という文字。
「インフルじゃないの」
誰かが言った。
「九月に?」
「九月でもなるだろ」
「うちも今日、二人熱だぞ」
笑いが起きた。
直人は弁当の唐揚げを食べながら、明日の配車表を見ていた。
今日休んだ二人の名前には、まだ復帰予定がない。
一人は朝の電話で三十九度と言っていた。
直人はその行だけ黄色く塗った。
「明日も休みなら、また組み替えだな」
独り言に、向かいの男が言った。
「お前、そういうの好きだよな」
「好きではないです」
「顔が楽しそう」
直人は否定しようとして、やめた。
午後、黒瀬亮からメッセージが来た。
《給湯器また止まった》
直人は《管理会社は?》と返す。
《連絡した。最短あさって》
《じゃあ銭湯?》
《今から見る》
《触って大丈夫なの?》
既読。
返事はなかった。
二十分後。
《直った》
写真には給湯器の前でしゃがむ黒瀬の手と、外されたカバー。
《何だった?》
《接触》
《業者待てばよかったのに》
《今日風呂入りたい》
直人は画面を見て笑った。
黒瀬は、明日の正しさより今日の不便を嫌う。
直人とは少し違う。
夕方。
会社を出るころには、ニュースの通知が朝より増えていた。
救急搬送の遅延。
発熱外来への問い合わせ集中。
一部地域で学校行事を延期。
それでも電車は来た。
コンビニは開いていた。
信号は変わった。
世界は普通に動いていた。
駅前のスーパーで、美咲と待ち合わせた。
「遅い」
「五分」
「五分遅い」
美咲は買い物かごを直人へ渡した。
中には牛乳、卵、冷凍うどん、洗剤。
それからマスクが一箱。
「買ったの?」
「職場で熱出した人いたから」
「今日?」
「今日。途中で帰った」
「何度?」
「知らない」
「聞かなかったの?」
美咲が足を止めた。
「聞いてどうするの」
「いや、何度くらいなのかなって」
「必要なら本人が言うでしょ」
また歩き出す。
直人は少しだけ引っかかった。
必要な情報なら、先に集めたほうがいい。
分からないままにしておく理由が、よく分からない。
レジの近くで、店員がマスクの棚へ紙を貼っていた。
《お一人様二点まで》
空ではない。
ただ、いつもより少ない。
「もう買ったからいいよ」
美咲が言った。
「二箱買えるよ」
「一箱でいい」
「なくなったら?」
「なくなったら、そのとき考える」
直人は棚を見た。
そのとき考える。
あまり好きな言葉ではなかった。
家に帰ると、黒瀬が廊下にいた。
工具箱を持っている。
「本当に直った?」
「湯、出た」
「原因ちゃんと分かった?」
「たぶん」
「たぶんで閉めたの?」
黒瀬は直人を見る。
「出なくなったらまた開ける」
美咲が吹き出した。
「直人と真逆」
「何が」
「直人なら、二度と壊れないところまで調べそう」
「普通そうしない?」
黒瀬は工具箱を持ち直した。
「今日は湯が出ればいい」
そう言って自室へ戻った。
夜。
直人は食卓でノートパソコンを開いた。
明日の便。
今日の欠勤二人は、明日も休み。
さらに一人、発熱で欠勤予定。
三人。
直人は配車表を複製した。
車。
人。
積載量。
時間。
納品先。
在庫。
動かせるものを一つずつ探す。
美咲が風呂から出てきた。
「まだ仕事?」
「明日三人休み」
「会社でやれば?」
「朝からだと遅い」
「今日もう終わったじゃん」
直人は画面を見る。
今日の仕事は終わった。
でも、明日はまだ壊れている。
「もうちょっと」
「先寝るよ」
「うん」
美咲が寝室へ入る。
テレビは消してある。
スマートフォンが震えた。
ニュース通知。
《高熱患者による暴力行為か 複数地域で通報》
直人は一度だけ読んだ。
それから通知を消した。
今、自分にできることはない。
明日の便なら、できる。
二十三時十八分。
直人は最後の一本を引き直した。
三人休んでも、回る。
完全ではない。
余裕もない。
一台遅れれば崩れる。
それでも、紙の上では全部の店へ届く。
保存する。
ファイル名。
《明日便_確定》
直人はパソコンを閉じた。
外で救急車の音がした。
近い。
一台。
少しして、もう一台。
直人は窓を見た。
カーテンの隙間を赤い光が通り過ぎる。
明日の朝には、たぶん落ち着いている。
そうでなくても。
条件が変われば、また組み直せばいい。
直人は電気を消した。
机の上には、明日を成立させるための配車表が残っていた。
まだ、その表の外側で何が壊れ始めているのかを、直人は知らなかった。




