第35話 同じ声
五日目、午後三時十四分。
「百二時間」
直人が呟いた。
黒瀬が顔を上げる。
「何が」
「ここに来てから」
スマートフォンの計算機には、102と出ていた。
最初の夜から数えれば多少ずれる。
寝ていた時間もある。
それでも、もう百時間を超えている。
「暇だな、お前」
「気になっただけです」
「何が」
直人はカウンターを見る。
秩序が客へ言った。
「ご注文をどうぞ」
直人は黙った。
◇
声が同じだった。
それだけなら、何でもない。
五日前に聞いた声を正確に覚えているわけではない。
だが、三日目から意識して聞くようになった。
朝。
昼。
夜中。
明け方。
また朝。
「お次のお客様、どうぞ」
高さが変わらない。
「かしこまりました」
掠れていない。
「ありがとうございました」
息が切れていない。
直人自身は昨日から少し喉が痛かった。
水を飲んでも、起き抜けは声が低い。
黒瀬は朝になると咳払いをする。
高校生の少年は寝起きにほとんど喋らない。
人間の声には時間が乗る。
秩序の声には、乗っていなかった。
◇
午後四時二分。
「ポテトできたよー!」
厨房から渾沌の声が飛ぶ。
直人は反射的に時計を見る。
黒瀬が気づいた。
「今度は何だ」
「渾沌さんも」
「何が」
「声」
黒瀬は厨房を見る。
「元気だな」
「ずっとです」
「そういう奴なんだろ」
それで済ませようと思えば済ませられる。
直人も、昨日まではそうしていた。
だが百時間という数字を一度見てしまうと、戻れなかった。
「黒瀬さん、百時間ずっと喋れます?」
「寝かせろ」
「ですよね」
「比較対象にすんな」
◇
午後五時三十七分。
直人はコーヒーを注文した。
「ホットで」
「かしこまりました」
秩序が答える。
直人はその場を離れなかった。
「……何かございますか」
「いえ」
聞いている。
声だけを。
近ければ何か分かると思った。
呼吸。
乾き。
疲れ。
何も分からない。
声優が同じ台詞を録音して、それを何度も再生しているみたいだった。
けれど秩序は機械ではない。
注文を聞き返す。
客の迷いを待つ。
子どもには少し視線を下げる。
生きて動いている。
なのに声だけでなく、姿にも五日分がない。
制服の襟。
髪。
目元。
立ち方。
「直人さん?」
呼ばれて、直人は我に返った。
「すみません」
「コーヒーはこちらでお渡しします」
「はい」
いつもの声だった。
◇
午後七時九分。
人間側の交代表が一巡した。
寝不足だった男が当番を代わってもらう。
老婆は夕方から眠っている。
美咲の子どもは機嫌が悪く、食べかけのポテトを残した。
五日目の疲れが、店内のあちこちに出ていた。
その真ん中を、ぱむちゃんが歩いていく。
「ぱむ」
直人はぱむちゃんも見る。
ぱむちゃんは初日から、ぱむだった。
疲れているのかどうか、そもそも直人には分からない。
だが少なくとも、動きが鈍ったようには見えない。
「クルーって何人いるんだろう」
直人が言う。
黒瀬が答える。
「知らん」
「交代してるところ、見ました?」
「俺が寝てる間にしてんじゃねえの」
「俺もそう思ってたんですけど」
「じゃあそう思っとけ」
乱暴だが、まだそれが一番まともな説明だった。
直人たちは全時間帯を監視していない。
バックヤードも見えない。
見えていないところで休んでいる可能性はある。
それを否定する証拠はない。
ただ。
休んでいる人間なら、戻ってきたとき何かが変わる気がした。
直人は自分でも、その「気がした」が証拠にならないことを知っていた。
◇
午後九時五十一分。
新しい客が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
秩序が言う。
直人はまた時計を見る。
五日目の夜。
初日の夜にも、たぶん同じ声を聞いた。
記録しておけばよかったと思った。
その発想が出た瞬間、自分でも嫌になった。
店員の声を記録して比較して、何を証明するつもりなのか。
「やめよう」
小さく言う。
「何を?」
美咲が聞いた。
「何でもない」
直人はスマートフォンを伏せた。
その直後。
「お次のお客様、どうぞ」
また同じ声がした。
直人は顔を上げなかった。
百時間を超えても変わらない声を、もう聞かなかったことにはできなかった。




