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第32話 洗う場所


「顔とか身体とか、どうやって洗う?」


灰色のリュックの女がそう言ってから、話はトイレの前へ移った。


「洗面台はある」「多目的トイレなら広い」「占領したら、本当に必要な人が使えない」


三日前ならゾンビの話をしていた。今は身体をどう洗うかで揉めている。それが妙に切実だった。


美咲が顔を洗って戻ると、前髪が濡れていた。


「お湯出るよ」


その一言で何人かが立つ。灰色のリュックの女が止めた。


「待って。全員行ったら詰まる。順番にしよう」


女は秩序に確認した。


「洗面台で顔を洗ってもいいですか」

「通常のご利用に支障のない範囲でお願いいたします」

「身体を拭くのは?」

「他のお客様のご利用を妨げないようお願いいたします」

「水、たくさん使っても?」

「蛇口はご利用いただけます」


節水してくださいとも、避難生活用ですからとも言わない。


◇


最初にできたのは風呂ではなかった。


美咲が無料の紙ナプキンを何枚か取り、お湯で濡らした。


「これで首とか拭くだけでも違う」


灰色のリュックの女は持っていたタオルで母親の首筋と腕を拭き、自分も多目的トイレで着替えた。十五分ほどで出る。次の人が入る。


ナプキンは十枚、さらに十枚と減った。直人はカウンターを見た。何も言われない。


昼前、ケースがほとんど空になった。


しばらくして見ると、満杯だった。


「補充したんじゃない?」

「誰が?」


誰も見ていなかった。


◇


「これ、使えるんじゃない?」


高校生の少年が空のペットボトルを持ってきた。キャップには小さな穴が三つ。


「何それ」

「シャワー」

「しょぼいな」

「出ればいいんだよ」


洗面台のお湯を入れる。熱すぎたので水を足す。逆さにすると細い三本の水が落ちた。


「頭くらいなら洗える」

「床びしょびしょにすんなよ」

「最後に拭けばいい」

「長居もするな」


誰も代表者ではなかった。それでも少しずつ形になった。


多目的トイレは風呂にはならない。客用トイレのまま、その中で人間がペットボトルをシャワーにした。


◇


別の発見をしたのは黒瀬だった。


ドリンクバーの給湯口を指す。


「こっちの湯のほうが楽じゃねえか」

「黒瀬さん、ドリンクバー頼んでる?」

「頼んでねえ」


黒瀬がボタンへ指を伸ばす。


「ドリンクバー一点ですね」


背後から秩序の声。


「まだ押してねえぞ」

「はい」

「押したら?」

「ご利用として承ります」


黒瀬は指を引っ込めた。


そこへ朝からドリンクバーを注文していた男が来る。


「俺なら?」

「ご利用いただけます」


男は紙カップへ湯を注いだ。もう一杯。さらにもう一杯。それを他の客へ渡す。


秩序は何も言わない。


「俺が汲んで、あの人が使うのは?」

「ご利用中のお客様がお取りになったものです」

「じゃあ何杯でも?」

「ドリンクバーをご利用いただけます」


境界だけは分かった。


注文した人間が汲む。その先は咎めない。


黒瀬が笑う。


「変な店だな」


遠くで渾沌が返した。


「いまさらー?」


◇


午後二時過ぎ、人間側のルールができた。


多目的トイレで身体を拭くのは十五分を目安。必要な人が来たら空ける。床を濡らしたら拭く。顔だけなら洗面台。湯は熱ければ水で割る。ドリンクバーの湯なら注文している人が汲む。


店が決めたルールではない。


客が、客であり続けるために作ったルールだった。


直人は温かいナプキンで首を拭いた。


「風呂入りたいな」

「入りたい」

「これ風呂じゃないもんね」

「うん」


PANDEMONIUMが生活を用意したわけではない。


あるものを、人間が使った。


◇


午後三時四十一分。


直人はトイレへ行く途中、バックヤードの扉の前を通った。


《関係者以外立入禁止》


扉が開き、渾沌が空のトレーを持って中へ入る。


一瞬だけ奥が見えた。


距離がおかしい。


店の外壁まで、あんな奥行きがあるはずがない。遠くで何かが鳴った。金属音にも、笑い声にも聞こえた。


扉が閉まる。


ナプキン。水。湯。氷。バーガー。


使っても使っても、店は営業を続ける。


どこから来るのだろう。


直人は《関係者以外立入禁止》を見た。


手は伸ばさなかった。


今必要なのは店の秘密ではない。


自分の顔を洗うことだった。


蛇口をひねる。


温かい水が、今日も出た。

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