第31話 三日目
朝なのかどうか、直人には一瞬分からなかった。
目を開けると、テーブルの木目が頬に張りついていた。
首が痛い。
腰も痛い。
口の中がひどく乾いている。
スマートフォンを見る。
午前六時十二分。
三日目だった。
「……くさ」
誰かが小さく言った。
直人は顔を上げる。
言った本人が慌てて自分の服の襟を嗅いだ。
「俺か」
「たぶん全員」
黒瀬が答えた。
笑いが少し起きた。
笑ったあと、みんな自分の服を嗅いだ。
直人もやった。
やらなければよかった。
◇
三日目になると、店内には人間の時間が積もっていた。
椅子の背に上着。
足元にリュック。
充電中のスマートフォン。
空のペットボトル。
薬袋。
子どもの靴下。
誰のものか分からないタオル。
最初の日には、全部なかった。
人間だけが少しずつ店に痕跡を増やしている。
「これ、誰の?」
美咲が黒い充電器を持ち上げる。
三人が同時に見る。
「俺のじゃない」
「私も違う」
「昨日ここにいた人のかな」
持ち主は分からない。
美咲は勝手に捨てず、テーブルの端へ置いた。
「ここ、物が増えてきたね」
直人は周囲を見る。
「住んでるみたいだ」
言ってから、妙な気分になった。
住んではいない。
少なくとも店は、誰にもそう言っていない。
四時間ずつ利用を延ばしている客が、三日間帰っていないだけだ。
◇
午前七時。
「お次のお客様、どうぞ」
秩序の声が通った。
直人はそちらを見る。
制服に皺はない。
髪も乱れていない。
目の下も暗くない。
初日に見た姿と、ほとんど同じだった。
隣では渾沌がトレーを運んでいる。
「はい、お待たせー!」
声が明るい。
三日目の朝の声ではなかった。
直人は自分の顔をスマートフォンの黒い画面に映す。
髪は潰れている。
頬にはテーブルの跡。
目の下に薄い影。
黒瀬は無精ひげが目立ち始めた。
美咲も髪を結び直している。
高校生の少年は椅子二つを寄せて眠っている。
人間には、昨日が残っている。
クルーには見えない。
「交代してるんじゃない?」
美咲が言った。
「誰と?」
「見てない時間に」
直人は答えられなかった。
確かに、ずっと見張っていたわけではない。
寝ている。
トイレにも行った。
入口ばかり見ていた時間もある。
だから断定はできない。
ただ。
三日前から、秩序の声を何度聞いただろう。
◇
午前八時三十六分。
灰色のリュックの女が、母親の髪を手櫛で整えていた。
「ごめんね。ちゃんとした櫛、家から持ってくればよかった」
「これでいいよ」
老婆は言った。
「顔だけ洗いたいねえ」
女が黙る。
その言葉を聞いていた何人かも、自分の顔を触った。
直人も額をこする。
脂っぽい。
食べる場所はある。
眠る場所も、無理をすればある。
だが、人間は食べて眠るだけでは何日も同じ状態でいられない。
汗をかく。
歯を磨きたい。
顔を洗いたい。
着替えたい。
昨日まで後回しにできたことが、三日目には後回しにしづらくなっていた。
「トイレの手洗いで顔洗うくらいなら……」
誰かが言う。
「混むぞ」
「タオルも足りない」
「水、使いすぎたらまずくない?」
話が始まる。
直人は口を挟みかけて、やめた。
まだ何も決まっていない。
それでも問題はもう消えない。
◇
午前九時十九分。
直人は注文の列に並んだ。
前の男の髪が跳ねている。
その前の女は同じ服を三日着ている。
自分も同じだ。
「ご注文をどうぞ」
秩序が言う。
近くで見ても変わらない。
疲れていない。
いや、疲れていないように見える、が正しい。
「コーヒーと、チーズバーガー」
「かしこまりました」
「……秩序さん」
「はい」
直人は聞きかける。
いつ寝ているんですか。
喉まで来た。
けれど、やめた。
まだ三日だ。
自分が見ていないだけかもしれない。
「何でもないです」
「承知しました」
秩序は次の注文へ移る。
声の高さも速度も、初日と同じだった。
◇
午前十時四分。
ぱむちゃんが床に落ちていた子どもの靴下の前で止まった。
「ぱむ」
美咲が気づく。
「あ、それうちの」
拾い上げる。
「ありがとう」
「ぱむ」
子どもはテーブルに突っ伏して眠っている。
美咲は靴下をリュックへ押し込もうとして、入らないことに気づいた。
中には昨日より物が増えている。
「もうパンパン」
「三日でこれか」
直人が言う。
「三日だから、じゃない?」
美咲はリュックを閉じる。
「一日なら我慢できること、全部持ち越してる」
直人は店内を見た。
美咲のリュックは閉まりきらない。
前の男の髪は跳ねたまま。
子どもはテーブルに突っ伏している。
カウンターでは、渾沌が笑っている。
「次、できたよー!」
直人は、その声を初日に聞いた気がした。
午前十時十一分。
灰色のリュックの女が立ち上がる。
「ねえ」
周囲の何人かを見る。
「顔とか身体とか、どうやって洗う?」
三日目になって、食事でもゾンビでもない問題が、店の真ん中に置かれた。




