第30話 帰ってきた客
午後四時二十四分。
灰色のリュックが扉を抜けた。
「戻った」
直人は立ち上がった。
女は一人ではなかった。
細い老婆の肩を抱いている。老婆は息を切らし、片手に小さな薬袋を握っていた。
「大丈夫ですか」
直人が駆け寄る。
「たぶん。途中で二回休んだけど」
女は笑おうとして、うまく笑えなかった。
「薬、ありました?」
「家にあった。母もいた」
老婆が直人を見る。
「この子が、ハンバーガー屋に行くって言うから」
「……はい」
「避難所じゃないの?」
直人が答えるより先に、秩序の声が届いた。
「いらっしゃいませ」
老婆がそちらを見る。
「まず、ご注文をお伺いします」
女が息を吐いた。
「帰ってきた途端、それなんだ」
「ご注文がお決まりでしたらどうぞ」
昨日と同じだった。
女は母親を空いている椅子へ座らせた。
「じゃあ、母に温かいの。食べやすいやつあります?」
秩序がメニューを示す。
戻ってきた人は、報告書を書く必要もなかった。
ただ、また客になった。
◇
午後四時三十八分。
女は新しい席で端末を操作した。
「前の分、切れてますよね」
「はい」
「じゃあ、もう四時間」
指が迷わず動く。
母親の分も手続きをする。
直人はその様子を見ていた。
「怖くなかったですか」
「怖かったよ」
「それでも行ってよかった?」
女は母親を見る。
老婆は両手でカップを包んでいる。
「聞く?」
「……聞かないです」
女が笑った。
「正解」
外へ出たことの正しさは、外に出た本人にしか決められない。
そして戻ってきたからといって、外出が安全だったことにもならない。
女のコートの袖は裂けていた。
右膝には乾いた泥がついている。
◇
午後五時十一分。
扉がまた開いた。
今度は薬局へ行った男だった。
右手にビニール袋を提げている。
「おかえりなさい」
直人が言った。
男は一瞬止まった。
「……ただいま、でいいのか?」
二人とも少し笑った。
秩序が言う。
「いらっしゃいませ」
男はそちらを見る。
「こっちはそれか」
「ご注文をどうぞ」
「先に水」
「お飲み物でしたら、こちらからお選びください」
「徹底してるな」
男は財布を出した。
「じゃあ水と、チーズバーガー」
「かしこまりました」
直人は気づく。
自分は帰還した人を迎えた。
PANDEMONIUMは来店した客を迎えた。
似ているようで、違う。
◇
午後六時。
高校生の少年だけが戻らなかった。
黒瀬は何も言わない。
直人も、なるべく入口を見ないようにした。
だが扉が鳴るたび、身体が先に反応する。
知らない客。
また知らない客。
ゾンビらしい影がガラスの向こうを横切り、ぱむちゃんがそちらを見た。
「ぱむ」
店内では番号が呼ばれる。
「八十一番のお客様」
秩序の声は変わらない。
帰ってきた人が二人。
帰ってこない人が一人。
それでも営業は続く。
直人は、そのことを冷たいとは思わなかった。
店まで一緒に不安になったら、ここには戻ってくる場所がなくなる気がした。
◇
午後六時四十七分。
老婆が半分残したバーガーを包んでいる。
「食べきれない」
「あとで食べよう」
娘が言う。
「あとでって、ここにいるの?」
「とりあえず四時間」
「四時間だけ?」
娘は少し考えた。
「そのあと、また考える」
老婆は納得したのかしていないのか、包みをリュックへ入れた。
直人はその会話を聞いていた。
昨日までは、四時間という区切りが短く感じた。
今は、その短さがちょうどいいのかもしれないと思う。
帰ると決めなくていい。
ずっと残ると決めなくてもいい。
外へ出ることもできる。
戻ることもできる。
戻れないこともある。
だから、次の四時間だけ決める。
◇
午後七時五十一分。
入口の扉が激しく開いた。
直人が振り向く。
高校生の少年だった。
一人だった。
顔に擦り傷がある。息が切れている。
「姉ちゃんは?」
黒瀬が聞いた。
少年は首を振った。
「学校、いなかった」
それだけ言って、膝に手をつく。
直人は何も言えなかった。
見つからなかった。
それでも少年は帰ってきた。
秩序が近づく。
「いらっしゃいませ」
少年が顔を上げた。
「……また、それ?」
「はい」
「俺、さっきまでここにいたんだけど」
「再度のご利用ですね」
少年は数秒、秩序を見た。
それから、息を整えながら笑った。
「じゃあ、コーラ」
「サイズはいかがなさいますか」
「一番でかいやつ」
「かしこまりました」
注文が通る。
少年は端末へ行き、四時間を選んだ。
直人はその背中を見る。
外へ出た三人が、三人とも同じものを持ち帰ったわけではない。
薬を持ち帰った人。
母親を連れてきた人。
薬局の袋を持ってきた人。
探していた人を見つけられなかった人。
成果はばらばらだった。
それでも、帰ってきたあとにすることは妙に似ていた。
注文する。
座る。
飲む。
延長する。
外へ出る前と同じ行為を、もう一度する。
帰還が約束されていない世界で、それは小さな反復だった。
午後七時五十七分。
直人自身の区切りも来る。
端末へ行く。
四時間。
もう指は止まらなかった。
背後で渾沌の声が飛ぶ。
「コーラできたよー!」
少年が取りに行く。
秩序が次の客を呼ぶ。
扉の外では、夜が始まっていた。
PANDEMONIUMの中では、誰かが戻ってきて、また客になっていた。




