第29話 外へ出る理由
午後零時二十三分。
「薬が、今日の夜でなくなる」
窓際の女が言った。
直人は思わず顔を上げた。
昨日、入口の列から入ってきた女だった。三十代くらい。左手の薬指に指輪があり、灰色のリュックをずっと足元に置いている。
「何の薬ですか」
「母の。血圧と、あと心臓」
「お母さん、ここに?」
「家」
直人は黙った。
女はスマートフォンの地図を開く。
「歩いて十五分くらい。昨日はここまで来るので精一杯だったから」
「一人で行くんですか」
「母も連れてくる。動ければ」
外を見る。
昼の光の中を、遠くの人影がふらついている。
PANDEMONIUMの中なら、注文の番号が呼ばれる。
外へ出れば、何が待っているか分からない。
「今、行かなくても」
直人は言いかけた。
女が見る。
「夜で薬が切れるのに?」
言葉が止まった。
安全だから残る。
それだけでは決められない人がいる。
◇
午後零時四十分。
外へ出ると言い始めたのは、一人ではなかった。
「俺も行く」
高校生くらいの少年が立った。
「何しに?」
黒瀬が聞く。
「姉ちゃん探す。昨日、駅で別れた」
「場所は?」
「たぶん学校。避難するならそこって言ってた」
別の男は薬局へ行くと言った。
老人はラジオの電池を探したいと言った。
理由がばらばらだった。
誰も「探索隊を作ろう」とは言わなかった。
直人は人数を数えかけて、やめた。
「一緒に行ったほうが安全じゃないですか」
女が首を振る。
「方向が逆」
少年も言う。
「俺、走れるから一人のほうがいい」
「でも」
「直人」
美咲が呼んだ。
子どもを膝に乗せたまま、こちらを見ている。
「全員まとめなくていいんじゃない?」
直人は店内を見る。
残る人。
出る人。
眠っている人。
注文している人。
同じ場所にいても、次にすることは同じではなかった。
◇
午後一時十一分。
秩序の前に、薬の女が立った。
「外に出たら、延長ってどうなりますか」
「現在のご利用時間は継続します」
「戻るまでに切れたら?」
「再度ご利用になる際にお手続きください」
「席は?」
「お席のお取り置きはしておりません」
女は一瞬、足元のリュックを見る。
「荷物、置いていっちゃだめですよね」
「お持ちください」
「ですよね」
それだけだった。
行ってらっしゃい、とも。
必ず戻ってきて、とも言わない。
外出許可もない。
店から出ることは、店が決めることではなかった。
女はリュックを背負った。
直人が立つ。
「途中まで一緒に」
「直人」
今度は黒瀬だった。
「お前は何しに行く」
「いや、危ないから」
「それ、理由になってねえだろ」
直人は答えられなかった。
女が小さく笑った。
「ありがとう。でも、自分の母だから」
扉が開く。
「ありがとうございました」
秩序が言った。
女は振り返った。
少しだけ変な顔をして、それから外へ出た。
扉が閉まる。
「……ありがとうございました、なんですね」
直人が言う。
「ご利用ありがとうございました」
秩序は次の客へ向いた。
「お次のお客様、どうぞ」
店は、出ていく人を引き止めなかった。
◇
午後二時三分。
少年も出た。
薬局へ行く男も出た。
老人は結局、残った。
「電池、まだ持ちそうだから」
そう言ってコーヒーを注文した。
直人は入口が開くたび顔を上げた。
違う客だった。
また開く。
違う。
外へ出た三人のことが頭から離れない。
「待ってても仕方ないよ」
美咲が言う。
「分かってる」
「分かってない顔してる」
「戻ってくるかな」
「分からない」
美咲は子どもの口元についたソースを紙で拭いた。
「でも、行く理由があったんでしょ」
「ここにいれば安全なのに」
「安全だけで全部決められたら、あの人はお母さん置いてこないよ」
直人は返事をしなかった。
自分ならどうするか考えた。
美咲と子どもがここにいる。
だから残っている。
もし二人が外にいたら。
たぶん、自分も出る。
◇
午後三時五十七分。
また延長の区切りが来た。
直人は端末へ向かった。
四時間。
操作する。
美咲も続く。
黒瀬も。
何人かは眠っている。
外へ出た三人の姿はまだない。
直人は入口を見る。
延長することと、ここから出ないことは同じではない。
四時間を買ったからといって、四時間ずっと椅子に座っている必要はない。
逆に、安全な四時間が残っていても、外へ出なければならない人がいる。
端末の表示が切り替わる。
次の区切り。
午後七時五十七分。
直人は席へ戻った。
◇
午後四時二十二分。
扉が開いた。
直人は反射的に立った。
入ってきたのは知らない男だった。
肩を落とす。
「いらっしゃいませ」
秩序の声。
男が注文する。
PANDEMONIUMは、誰かが戻るのを待つ場所にはならなかった。
待っているのは、人間のほうだった。
ぱむちゃんが入口の近くまで歩いていく。
「ぱむ」
外を見る。
直人も見る。
道路の向こうには、まだ誰もいない。
それでも、外へ出たこと自体を間違いだったとは思えなくなっていた。
ここに残る人には、残る理由がある。
外へ出る人には、外へ出る理由がある。
安全は大きい。
けれど、それだけで人間の行き先は決まらなかった。
午後四時二十四分。
また扉が開いた。
今度は、灰色のリュックが見えた。




