第28話 起きても営業中
午前七時五十八分。
直人は、店内に差し込んだ白い光で目を覚ました。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
首が痛い。腰も痛い。口の中が乾いている。右腕には、テーブルの縁の跡が赤く残っていた。
向かいでは美咲が子どもの髪を手で直している。
「おはよう」
「……おはよう」
声が掠れた。
黒瀬は隣の席で顔をしかめながら立ち上がった。
「身体いてえ」
「俺もです」
「二度と椅子で寝たくねえ」
そう言いながら、黒瀬はまた椅子へ座った。
直人は窓の外を見た。
朝だった。
道路の向こうに、倒れた自転車。放置された車。遠くをふらつく人影。
世界は戻っていない。
店内へ目を戻す。
「六十八番のお客様。お待たせしました」
秩序がトレーを差し出していた。
午前三時に見たときと、同じ声だった。
髪も乱れていない。制服にも皺がない。目の下に影もない。
厨房では渾沌が焼き上がったバンズを並べている。
「朝だねー」
それだけ言って、次の注文票を取った。
直人は時計を見た。
朝になった。
なのに、店には朝になった形跡がなかった。
◇
午前八時十二分。
客たちが順番に起き始めた。
「水、飲みたい」
「顔洗いたいな……」
「スマホ何パー?」
「俺、十一」
「充電器貸せる人います?」
人間側だけに、夜の残骸が積もっていた。
寝癖。乾いた喉。皺だらけの服。鈍い動作。
子どもが目を擦る。
「おなかすいた」
美咲が笑った。
「何食べる?」
「ポテト」
「朝から?」
「ポテト」
渾沌が遠くから反応した。
「ポテトあるよー!」
「聞こえてる……」
美咲が苦笑する。
直人はメニューを見た。
朝食用の配給はない。
避難者向けの食事時間もない。
昨日と同じメニューから、食べたいものを注文するだけだ。
「じゃあ、バーガー二つとポテト。コーヒーも」
「俺もコーヒー」
黒瀬が横から言う。
「自分で頼んでくださいよ」
「分かってる」
黒瀬はレジへ向かった。
数歩歩いて、止まる。
「なあ」
「はい?」
「昨日の夜から、店員変わった?」
直人は秩序を見る。
「……見てないです」
「俺も」
二人とも、それ以上言わなかった。
◇
午前八時四十分。
入口の扉が開いた。
外から三人入ってきた。
若い男。中年の女。腕を布で吊った老人。
三人とも、店内を見て固まった。
眠っている客。
椅子の下の荷物。
テーブルに置かれた充電器。
そして、その間を普通に歩くぱむちゃん。
「ぱむ」
若い男が言った。
「ここ……泊まれるんですか」
直人は答えかけた。
泊まれる。
昨日、自分たちはここで眠った。
だが秩序が先に言った。
「当店は飲食店です」
男が戸惑う。
「でも、みんな寝てる」
「滞在中のお客様です」
「一晩?」
「滞在時間はお客様ごとに異なります」
「今からでも入れますか」
「ご利用いただけます」
秩序はメニューを示した。
「ご注文がお決まりになりましたら、お申し付けください」
男はしばらくメニューと客席を見比べた。
「……じゃあ、チーズバーガー」
「セットになさいますか」
会話はそこで通常営業へ吸い込まれた。
直人は妙な感覚を覚えた。
自分たちは夜を越した。
店は越していない。
店にとっては、夜も朝も営業時間の途中ですらない。
ただ営業している時間が続いている。
◇
午前九時十九分。
直人はカウンターの端に立った。
秩序がレジを操作している。
昨夜から何度見たか分からない動きだった。
「秩序さん」
「はい」
「ずっとここにいましたよね」
「はい」
「夜も」
「はい」
「朝まで」
「はい」
直人はそこで言葉を切った。
聞きたいことは分かっている。
いつ休んだのか。
いつ寝たのか。
何時間働いているのか。
でも昨日、渾沌に似たことを聞いて、質問そのものが噛み合わなかった。
秩序が言う。
「ご注文ですか」
「……いえ」
「そうですか」
次の客が来る。
「いらっしゃいませ」
直人は退いた。
答えを聞かなかったのに、昨日より分からなくなった。
◇
午前十一時五十六分。
また四時間の区切りが来た。
直人は端末の前に立った。
昨夜ほど迷わなかった。
外にはまだ危険がある。
美咲と子どもを連れて動く理由もない。
延長する。
操作を終える。
黒瀬も続いた。
朝から来た三人のうち、若い男も端末の説明を聞いている。
「四時間ずつ?」
「はい」
「その後も?」
「継続してご利用になる場合は、再度お手続きください」
「何回まで?」
秩序は少しだけ首を傾けた。
「ご利用を継続されるあいだです」
男が直人を見る。
直人は肩をすくめた。
昨日なら、その言葉を一晩の話だと思ったかもしれない。
今は違う。
四時間の先に、また四時間がある。
その先にも、同じ店がある。
少なくとも、今は。
◇
午後零時。
厨房のタイマーが鳴った。
「七十四番、できたよー!」
渾沌の声が飛ぶ。
「七十四番のお客様」
秩序が続ける。
ぱむちゃんがトレーの横で跳ねた。
「ぱむ!」
朝になったのに、何も始まらなかった。
夜が終わったのに、何も終わらなかった。
人間たちだけが、眠って、起きて、腹を空かせ、身体を痛めていた。
PANDEMONIUMは、その全部の横で営業を続けている。
直人はコーヒーを一口飲んだ。
ぬるくなっていた。
新しいコーヒーを注文しようかと思った。
その考えがあまりにも普通で、少しだけ笑った。
店は、起きても営業中だった。
たぶん、眠っても。
そして次に眠るときも。




