第27話 席で眠る
午後十一時四十七分。
直人は、目を覚ました。
頬の右側が痛かった。
テーブルに突っ伏したまま眠っていたらしい。腕は痺れ、首を起こすと骨が鳴った。
最初に聞こえたのは、油の音だった。
じゅう、と肉が焼ける。
次に、レジの電子音。
「ありがとうございました」
秩序の声だった。
昼と同じだった。
直人はスマートフォンを見る。午後十一時四十七分。
もう一度、店内を見る。
窓際の席では美咲が子どもを抱いたまま眠っている。二つ向こうでは黒瀬が腕を組み、壁へ頭を預けていた。入口から離れた席では、昼に逃げ込んできた女が自分の上着を丸めて枕にしている。
誰かが決めたわけではなかった。
寝具もない。
消灯もない。
PANDEMONIUMは、眠る人間たちの都合など知らないように営業していた。
「五十二番のお客様」
秩序が番号を呼ぶ。
奥の席で、男がびくりと起きた。
「……俺?」
「五十二番、チーズバーガーセットです」
「あ、はい」
男は寝ぼけた顔で受け取りに行った。
直人は時計をもう一度見た。
「夜中でも、普通に呼ぶんですね」
秩序がこちらを見る。
「ご注文の商品ができましたので」
「寝てても?」
「お呼びします」
「ですよね……」
当たり前の答えだった。
だから妙だった。
◇
午前零時十二分。
子どもが泣いた。
美咲が目を覚まし、背中を撫でる。
「ごめん。起こした?」
「俺はもう起きてた」
「何時?」
「十二時過ぎ」
美咲は天井を見た。
「明るいね」
店内照明は昼と変わらない。
「暗くしてもらう?」
直人が言うと、美咲はすぐ首を振った。
「営業中でしょ」
その一言で終わった。
ここは寝るための場所ではない。
自分たちが、営業している店の客席で寝ているだけだ。
直人は上着を脱いだ。
「これ、下に敷く?」
「あなた寒くない?」
「店の中なら」
美咲は少し考えて、上着を受け取った。二つ折りにして、子どもの頭の下へ入れる。
隣の席から黒瀬の声がした。
「椅子二個使うなよ」
目を閉じたままだった。
「起きてたんですか」
「今起きた」
「寝づらいですね」
「バーガー屋だからな」
黒瀬はそれだけ言って、座り直した。
一分もしないうちに、また寝息が聞こえた。
◇
午前一時三分。
問題は、椅子だった。
「すみません」
新しく入ってきた客が、入口近くで立っている。
空席はある。
ただし、二つの椅子に一人ずつ足を乗せて眠っている客がいた。
直人は立った。
「起こします」
「直人さん」
秩序が呼んだ。
「はい」
「そちらのお席をお使いください」
秩序が示したのは、カウンター脇の一席だった。
「でも一人なら、あっち二席使ってるし」
「現在、空席があります」
「満席になったら?」
「そのとき対応します」
直人は立ったまま止まった。
また先に整えようとしていた。
まだ起きていない問題を、眠っている誰かを起こしてまで解決しようとしていた。
新しい客はもう座っていた。
「照り焼き一つ」
「かしこまりました」
注文が通る。
眠っている二人は起きなかった。
◇
午前二時二十六分。
今度は本当に席が足りなくなった。
外には、さっきまで入口にいたゾンビとは別の三人が立っていた。
三人とも会話ができる。
一人は高校生くらいの少年。もう一人は杖をついた男。最後は髪を濡らした女だった。
秩序が店内を見渡した。
「お客様」
声量は変わらない。
何人かが目を覚ます。
「混雑しています。お荷物や足で使用している椅子を空けてください」
直人もすぐ動いた。
自分の隣に置いていたリュックを床へ下ろす。
美咲も子どもを抱き直した。
黒瀬が目を開ける。
「何人?」
「三人」
「じゃ詰めるか」
誰も「避難者が来た」とは言わなかった。
椅子が必要な客が来た。
その扱いだった。
眠っていた男の一人が不機嫌そうに足を下ろす。
「寝てたんだけど」
秩序は言った。
「椅子は一名様につき一席でお願いします」
「横になれない?」
「混雑時はご遠慮ください」
男は舌打ちしたが、従った。
三席が空く。
扉が開く。
「いらっしゃいませ」
午前二時二十八分。
その声は、午後二時の声と何も違わなかった。
◇
午前三時十四分。
直人は眠れなくなった。
客席は妙な形に崩れていた。
机へ伏せる人。
壁にもたれる人。
両腕を組んで俯く人。
子どもを膝に乗せる人。
床へ座ろうとして秩序に止められ、椅子へ戻った人。
誰も快適ではない。
それでも、外よりは眠れた。
ガラスの向こうには暗い道路がある。
ときどき何かが通る。
人なのか、もう違うのか、遠くて分からない。
店内では、渾沌がトレーを拭いていた。
「眠れない?」
直人は顔を上げる。
「まあ」
「コーヒー飲む?」
「寝たい人に勧めます?」
「じゃあやめとく?」
「……やめときます」
「はーい」
渾沌は次のトレーを取った。
直人はしばらく見ていた。
「渾沌さん」
「ん?」
「眠くないんですか」
「今?」
「今というか……ずっと」
渾沌は少し考えた。
その間にも手は止まらない。
「注文たまってないよ?」
「いや、仕事の話じゃなくて」
「じゃあ何の話?」
直人は答えに詰まった。
自分の身体は、たった一日で重い。
美咲も黒瀬も、知らない客たちも、椅子の上で身体を折って眠っている。
なのに彼女は、昨日から一度も速度を落としていない。
「……何でもないです」
「そっか」
渾沌はトレーを重ねた。
厨房からタイマーが鳴る。
「できた!」
走って戻る。
直人はその背中を見送った。
答えはなかった。
ただ、眠そうではなかった。
◇
午前四時。
滞在時間の区切りが来た。
直人は端末の前に立った。
外を見る。
暗い。
美咲を見る。
眠っている。
子どもも眠っている。
黒瀬は起きていて、無言で首を回していた。
「延長します?」
直人が聞く。
「する」
即答だった。
「俺も」
手続きをする。
四時間。
それだけだった。
宿泊ではない。
避難所への入所でもない。
朝まで置いてもらう約束ですらない。
今から、また四時間。
直人は席へ戻った。
上着は子どもの枕になっている。
自分には背もたれの硬い椅子が一つ。
座る。
厨房から油の音。
「六十一番のお客様」
秩序の声。
誰かが起きる。
誰かは眠ったまま。
ぱむちゃんが客席の間を歩いてきた。
眠っている人の足元で止まり、跨げないと分かると、くるりと向きを変える。
「ぱむ」
別の道を通っていった。
直人は目を閉じた。
静かではなかった。
暗くもなかった。
ベッドもなかった。
それでも、人間は眠る。
店は眠らない。
少なくとも今夜、直人にはそう見えた。
そしてPANDEMONIUMは、彼らが眠っているあいだにも、一度も別の場所にはならなかった。




