第24話 もう四時間
午前七時四十二分。
直人は、紙に書かれた時刻を三度見た。
7:49。
あと七分。
夜は明けていた。
ガラスの向こうの空は薄い灰色で、道路の端だけが朝の光を拾っている。
店内では、朝になった感じがしなかった。
照明は夜と同じ明るさ。
鉄板の音も同じ。
違うのは客だった。
テーブルに伏せている女。
椅子を二つ使って横になった男。
右手にタオルを巻いた若い男は、壁にもたれたまま眠っている。
直人自身も、身体のあちこちが痛かった。
首。
腰。
目の奥。
口の中が乾いている。
「あと七分ですよ」
声がした。
秩序だった。
直人は顔を上げる。
「分かってます」
「はい」
秩序はそれだけ言って、隣の客へ向かった。
声が変わっていない。
午前三時と同じ。
昨日の夕方とも同じ。
その向こうで、渾沌が紙袋を一枚落とした。
「あ」
拾う。
もう一枚落ちた。
「あ」
秩序が見る。
「二枚目です」
「一枚目とは違うよ」
「回数の話です」
「じゃあ二回目!」
直人は笑いかけて、欠伸になった。
顎が痛い。
◇
午前七時四十五分。
外で、金属が倒れる音がした。
がしゃん。
眠っていた客が一斉に顔を上げた。
右手を怪我した男も起きる。
「何だ」
誰も答えない。
直人は窓へ寄った。
道路の向こう。
自転車が一台倒れている。
そのそばに、人が三人いた。
いや。
二人は立っていた。
一人は、立とうとしていた。
膝をつく。
起きる。
また倒れる。
立っている二人が、その人へ寄っていく。
「離れた方がいい」
直人が言った。
誰に言ったのか自分でも分からなかった。
店内の客が窓から離れる。
右手の男が、入口を見る。
「ここ、鍵かかる?」
秩序が答えた。
「通常営業中です」
「いや、そうじゃなくて」
男は外を見る。
「閉めた方がよくないですか」
渾沌も窓を覗いた。
「あっち、朝から大変そう」
「大変そうで済むのかよ」
男の声が少し荒くなる。
その時。
電子音が鳴った。
ぴ。
直人の手元。
7:49。
延長期限だった。
◇
「延長されますか」
秩序が聞いた。
外では、三人のうち一人がこちらを向いた。
遠い。
顔は見えない。
それでも直人は一歩下がった。
「します」
「何時間ですか」
「四時間」
答えてから、直人は止まった。
昨日から何度目だ。
最初は四時間なら短いと思った。
朝までの仮置き。
外が落ち着くまで。
次も四時間。
今も四時間。
「十一時四十九分までです」
新しい紙が出る。
直人は受け取った。
11:49。
昼になる。
その頃、外がどうなっているかは分からない。
「俺も」
右手の男が来た。
「四時間」
「承知しました」
「その前に出てもいい?」
「はい」
「戻ってきたら?」
「その時点でご利用ください」
男は紙を受け取った。
「ホテルみたいなのに、全然ホテルじゃないな」
渾沌が首を傾げる。
「バーガー屋だよ?」
「知ってるよ」
男が笑った。
笑ってから、右手を押さえた。
顔が歪む。
直人は気づいた。
昨夜より、タオルの血は乾いている。
でも男の顔色は悪い。
店員二人は変わらない。
客だけが朝になっていた。
◇
午前八時十二分。
直人は朝食を注文した。
腹が減ったというより、何か食べないとまずい気がした。
バーガーと水。
包みを開く。
湯気。
焼いた肉の匂い。
一口目はうまかった。
二口目で、噛むのが面倒になった。
「食べないんですか」
向かいの女が起きていた。
髪が片側だけ潰れている。
「食べてます」
「止まってましたよ」
直人は手を見る。
バーガーを持ったまま、ぼんやりしていたらしい。
「寝た方がいいんじゃないですか」
「あなたも」
女は自分の髪を触る。
「寝ました」
「それで?」
「寝た気がしない」
二人で笑った。
笑うしかなかった。
厨房から声が飛ぶ。
「三十一番のお客様!」
渾沌だった。
朝八時十二分の声。
午前三時十九分の声と同じだった。
女もそちらを見る。
「……あの人たち、寝た?」
直人は答えなかった。
聞かれたくなかった質問だった。
◇
午前九時三分。
外の三人はいなくなっていた。
代わりに、店の前へ五人来た。
家族らしい。
男。
女。
子ども二人。
年配の女。
全員、荷物を持っている。
扉の前で止まる。
中を見る。
直人は立ち上がった。
頭が重い。
「待って」
自分でも驚くほど強い声が出た。
五人がこちらを見る。
直人は扉へ行こうとする。
「直人さん」
秩序の声。
振り返る。
「何ですか」
「ご注文のお客様でしたら、こちらで対応します」
「でも外、さっき」
「確認します」
秩序は扉へ向かう。
歩く速度も変わらない。
直人は、その背中を見ていた。
止めたかったのか。
助けたかったのか。
追い返したかったのか。
自分でも分からない。
眠い。
それだけで、判断の輪郭がぼやけている。
扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
五人が入ってくる。
年配の女が最初に聞いた。
「ここ、食べられますか」
「はい」
「まだやってる?」
渾沌が横から言う。
「やってるよ!」
「朝だから?」
「朝じゃなくても!」
秩序が補足する。
「二十四時間営業です」
五人は顔を見合わせた。
子どもがメニューを指した。
「ポテトある?」
「あるよ!」
それで、五人は客になった。
直人は椅子へ戻った。
自分が入口へ立たなくても、店は動いた。
それが少し安心で。
少し怖かった。
◇
午前十時二十七分。
直人は眠っていた。
今度は自覚があった。
起きようと思ったまま、目が閉じた。
夢は見なかった。
肩を叩かれた気がして目を開ける。
誰もいない。
テーブルの端に、冷めた水。
半分残したバーガー。
時計。
10:27。
一時間以上飛んでいた。
窓際では、さっきの家族の子どもがポテトを食べている。
母親は椅子で眠っていた。
父親は窓の外を見ている。
年配の女はレジで何か注文している。
店内の人数が増えていた。
直人の知らない間に。
「起きた!」
渾沌が言った。
「……はい」
「おはよう!」
直人は時計を見る。
「今度は、おはようでいいんですか」
渾沌も時計を見る。
「朝だから!」
秩序が横を通る。
「先ほどは時刻だけでは決まらないと言っていました」
「あれは三時だったから!」
「基準が変わっています」
「朝になったから!」
「循環しています」
直人は笑った。
今度は欠伸にならなかった。
少しだけ眠れたからだ。
そのことに気づいて、もう一つ気づく。
渾沌も秩序も。
まだ同じだった。
自分が眠っていた一時間にも、たぶん働いていた。
◇
午前十一時四十六分。
直人はレジの前にいた。
紙。
11:49。
あと三分。
外は朝より明るい。
けれど安全になったようには見えない。
遠くで煙が上がっている。
交差点には放置された車が増えた。
携帯電話のアンテナは圏外になったり戻ったりしている。
それでも店内では、PANDEMONIUMのフリーWi-Fiだけが繋がっていた。
美咲からの返信はない。
黒瀬からもない。
直人は画面を消した。
「延長されますか」
秩序が聞く。
昨日なら、その問いを聞くたびに迷っていた。
外へ出るか。
ここに残るか。
四時間という数字が、大きな決断の単位に見えていた。
今は。
「四時間」
先に口が動いた。
自分で驚く。
秩序は驚かない。
「承知しました」
新しい紙。
15:49。
直人は受け取った。
「また四時間だ」
渾沌が覗き込む。
「はい」
「長い?」
直人は紙を見る。
昨日なら長かった。
午前三時には、朝までの距離だった。
今は。
「分かりません」
そう答えた。
渾沌は「そっか」とだけ言って、次の注文へ行った。
直人は席へ戻る。
右手を怪我した男は眠っている。
家族の父親は水を飲んでいる。
子どもは母親の上着を丸めて枕にしていた。
客席だった。
誰もベッドを運び込んでいない。
避難所の札もない。
テーブルにはメニューが立っている。
レジでは注文番号が呼ばれている。
その中で、人間だけが少しずつ生活の形を崩していた。
直人は15:49の紙を、前の二枚と重ねた。
3:51。
7:49。
11:49。
15:49。
四時間。
四時間。
また四時間。
外の時計は朝から昼へ進んでいる。
店の中では、その四時間が積み重なっていた。
直人は紙を捨てなかった。
次の期限まで、あと四時間。
今度はそれを、長いとも短いとも思わなかった。




