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第23話 午前三時


午前二時五十八分。


直人は、油のはぜる音で目を開けた。


眠っていたらしい。

腕を組んだまま椅子にもたれていたせいで、首の右側が痛い。


向かいの女は、テーブルに伏せて眠っていた。

入口近くの男は椅子を二つ寄せ、窮屈そうに身体を丸めている。


店内の照明は落ちていない。


厨房から、鉄板の音。

冷蔵庫の低い唸り。

紙袋を開く乾いた音。


昼と同じだった。


直人は時計を見た。


2:58。


外は真っ暗だった。


ガラスの向こうの道路には車がない。

信号だけが、誰もいない交差点へ赤と青を繰り返している。


その手前を、何かが歩いた。


人影。


足を引きずっている。


直人の眠気が消えた。


影は店の前を通り過ぎた。

扉には触れない。

そのまま暗い道へ消えた。


直人は息を吐く。


「起きた?」


声に振り返った。


レジの内側に渾沌がいた。


「……はい」


「おはよう?」


渾沌は壁の時計を見る。


「まだ夜だね」


その隣で、秩序が注文票を揃えている。


「午前三時です」


「じゃあ、おはようじゃない?」


「時刻だけでは決まりません」


「難しいなあ」


二人とも、普通だった。


直人はしばらく見た。


渾沌が新しい紙袋を開く。

秩序が注文票と中身を照合する。


手が止まらない。


声も掠れていない。

目の下にも何もない。


午後七時に見た時と、同じだった。


いや。


朝、初めてこの店を見つけた時とも。


「ご注文ですか?」


秩序に聞かれた。


直人は、自分がレジの前まで来ていたことに気づいた。


「いや……」


腹が鳴った。


渾沌が笑った。


「注文だ」


「……ポテトください」


「はい」


秩序が注文を取る。


直人は席へ戻った。


◇


午前三時七分。


揚げたてのポテトが来た。


こんな時間に。


直人は一本つまんだ。

熱い。

塩が舌につく。


窓の外では、さっきの人影とは別の影が道路の向こうに立っていた。


店の中では、渾沌が床を拭いている。


「そこ、まだ濡れてます」


秩序が言う。


「分かってるよ」


「今踏みました」


「自分で拭くからいいの」


「足跡が増えます」


「じゃあもう一回拭く」


「仕事を増やしています」


「減らすよ」


言いながら、また踏んだ。


「増えました」


「……今のは事故」


直人はポテトを持ったまま見ていた。


終末の夜だった。


少なくとも、外は。


この数日で、救急車は来なくなった。

コンビニは閉じた。

電車も止まった。

道路には、もう近づかない方がいい人間が歩いている。


それなのに午前三時七分、バーガー店の床に増えた足跡について二人が言い合っている。


変だった。


ひどく変なのに。


少し笑ってしまった。


渾沌がこちらを見る。


「何?」


「いえ」


直人はポテトを食べた。


「いつから働いてるんですか」


口から出ていた。


渾沌が首を傾げる。


「今日?」


「今日というか」


直人は時計を見る。


「昨日の夜もいましたよね」


「いたね」


「昼も」


「いた」


「朝も」


「うん」


「その前は?」


渾沌が秩序を見る。


秩序も直人を見る。


「ご勤務についてのお問い合わせですか」


「……たぶん」


自分でも分からなくなった。


聞きたいのは勤務表ではない。


眠くないのか。

疲れないのか。

いつ休むのか。


けれど、そのどれも、聞いた瞬間に何かを越える気がした。


「すみません。いいです」


直人は引いた。


「そうですか」


秩序は注文票へ戻った。


渾沌も床へ戻る。


追いかけて説明してこなかった。


それがかえって気になった。


◇


午前三時十九分。


扉が開いた。


店内の全員が起きた。


入ってきたのは若い男だった。


右手にタオルを巻いている。

血が滲んでいた。


「すみません」


男は後ろを振り返り、扉を閉めた。


「ここ、入っていいですか」


秩序が答える。


「ご利用ですか」


「え」


「ご注文ですか」


男は一瞬、何を聞かれたのか分からない顔をした。


「……飯、あるんですか」


「ございます」


男はメニューを見た。


「じゃあ、一番早いやつ」


「こちらです」


「それ」


注文が入る。


誰も、まず事情を聞かなかった。

どこから来たのかも。

何に追われたのかも。

腕をどうしたのかも。


男の方が戸惑っていた。


「水、もらえます?」


「はい」


「あと……ここ、少しいても?」


「滞在延長をご利用いただけます」


直人はテーブルの上の紙を見た。


3:51。


男も同じ説明を聞く。


四時間。

必要なら、また延長。


「四時間……」


男はその数字を繰り返した。


「朝までじゃなくて?」


「四時間です」


「その後は?」


「必要でしたら、またお申し付けください」


男は少し笑った。


「変な店」


渾沌が厨房から顔を出した。


「よく言われる?」


秩序が答える。


「今は聞かれていません」


「じゃあ初めてかも」


男が笑った。


緊張が、一瞬だけ抜けた。


直人はそれを見ていた。


男は客になった。


怪我人でも、生存者でも、避難民でもなく。


少なくとも、このレジの前では。


◇


午前三時三十六分。


眠っていた客の一人が起き、トイレへ行った。


戻ってくる途中、厨房を見た。


「まだ同じ人?」


誰にともなく言った。


直人は顔を上げた。


男はそれ以上言わず、席へ戻った。


気づいたのは自分だけではない。


渾沌が新しい注文を運ぶ。

秩序がレジを打つ。


ぱむちゃんが厨房から出てきた。


「ぱむ」


直人の足元で止まる。


「お前も起きてるのか」


「ぱむ」


「眠くない?」


「ぱむ」


答えにはならない。


ぱむちゃんは直人のテーブルの下を抜け、次の席へ行った。


誰かが落としたナプキンの前で止まる。


「ぱむ」


渾沌が拾った。


「ありがと」


「ぱむ」


それだけだった。


◇


午前三時四十九分。


直人は紙を持って立った。


残り二分。


レジへ行く。


秩序が見る。


「延長ですか」


「はい」


答えてから、直人は渾沌を見た。


床を拭き終え、今度はトレーを重ねている。


午後七時から、六時間近く。


本当は、それより前から。


どこから数えればいいのか分からない。


「四時間で」


「承知しました」


新しい紙が出る。


7:49。


朝になる。


直人は受け取った。


「一つだけ」


「はい」


「朝になったら、交代するんですか」


秩序は少し首を傾げた。


「何をですか」


「……いえ」


また、やめた。


今度は聞けなかったのではない。


聞く必要があるのか、分からなくなった。


直人は席へ戻った。


午前三時五十一分。


最初の延長が終わった。


外では、何かが遠くで倒れた。


店内では、新しい注文番号が呼ばれた。


「二十七番のお客様」


声は、昼と同じだった。


直人は新しい紙をテーブルへ置く。


7:49。


あと四時間。


その四時間で、自分はたぶんまた眠くなる。

腹も減る。

身体も重くなる。


厨房では、鉄板が鳴った。


渾沌が何か言って、秩序が返す。

ぱむちゃんが「ぱむ」と鳴く。


誰も、午前三時であることを特別扱いしていなかった。


直人だけが、時計を見ていた。

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