第22話 四時間
午後七時を過ぎても、PANDEMONIUM BURGERの看板は消えなかった。
直人は道路の向こうから、それを三度見た。
昼に来たときと同じ白い文字。窓の向こうでは注文を受け、厨房では鉄板が鳴っている。
スマートフォンには、美咲から短いメッセージが来ていた。
《こっち、今夜は動かない方がいいみたい》
続けて、藤村。
《北側の通りでまた倒れた人。救急は来ない》
直人は返信せず、店へ入った。
外で受け取るつもりだった。
けれど、交差点の向こうで誰かが走り、その後ろから怒鳴り声がした。
扉を閉める。
店内には六人いた。
食事をしている客が四人。窓際でスマートフォンを握っている男が一人。もう一人は、空になったトレーの前で動かなかった。
ぱむちゃんが直人の靴のそばまで来る。
「ぱむ」
「今日は中にいる」
「ぱむ」
それで通じたのかは分からない。
ぱむちゃんは厨房の方へ戻っていった。
直人は一番奥の席へ座った。
◇
午後七時四十三分。
美咲から電話が来た。
『帰ってこないで』
最初の一言がそれだった。
「何かあった?」
『さっき、道路のところに人が集まってる。誰か噛まれたって』
「見たの?」
『窓から。近くには行ってない』
直人は店の窓を見る。
ここから家までは歩ける。
いつもなら。
『そっちは?』
「店」
『まだやってるの?』
「やってる」
言ってから、直人も入口の看板を見た。
営業中。
昼から変わっていない。
「しばらくここにいる」
『しばらくって?』
直人は答えられなかった。
一時間。
朝まで。
安全になるまで。
どれも、自分には決められない。
「聞いてみる」
『何を?』
「どれくらいいていいのか」
電話を切った。
◇
レジの前には二人並んでいた。
直人は最後につく。
自分の番になる。
「すみません」
声をかけてから、少し変な気がした。
注文ではない。
「ここ、食べ終わったあとも、いていいですか」
返ってきたのは、避難所の案内ではなかった。
「ご滞在の延長ですか」
直人は聞き返した。
「延長?」
「はい」
「何時まで?」
「四時間単位です」
直人は時計を見る。
午後七時五十二分。
四時間なら、ほとんど午前零時だ。
「四時間だけ?」
「続けてご利用になる場合は、また延長できます」
「何回まで?」
「必要になったときにお申し付けください」
回数の答えにはなっていない。
けれど直人が欲しかったのは、たぶん回数ではなかった。
今すぐ外へ出なくていい。
それだけだった。
「じゃあ、四時間」
手続きをする。
小さな紙が渡された。
終了時刻が印字されている。
23:52。
宿泊許可証には見えなかった。
整理券に近い。
直人はそれを持って席へ戻った。
◇
午後八時半。
客が一人増えた。
若い女だった。
扉を閉めるなり、外を振り返った。
「ここ、まだやってますか」
「営業しております」
返事はあまりにも普通だった。
女は水だけを頼もうとして、メニューを見直し、結局バーガーも注文した。
食べ終わっても帰らなかった。
直人は声をかけなかった。
やがて女が自分からレジへ行く。
少し話す。
小さな紙を受け取る。
戻ってくる。
直人と同じだった。
「四時間?」
思わず聞くと、女は紙を見せた。
「四時間」
それだけ言って、入口から一番遠い席へ移った。
避難してきた、とは言わなかった。
店も、避難させたとは言わなかった。
◇
午後九時十七分。
藤村から連絡。
《黒瀬は部屋。こっちは今のところ動かない》
《美咲さんたちも確認済み》
直人は肩の力を抜いた。
すぐに、別の通知が入る。
近隣のグループチャット。
《駅前封鎖》
《コンビニ閉まった》
《南側通らない方がいい》
情報が増えるたび、帰れる道が減っていく。
直人は地図を開いた。
どこが安全か。
どこが通れるか。
いつ動けばいいか。
赤い印をつけかけて、やめた。
四時間後の道路を、今の地図では決められない。
スマートフォンを伏せた。
目の前には、食べ終えたトレーがある。
厨房から油のはぜる音がした。
新しい客が注文している。
午後九時を過ぎているのに、店内の動きは昼と変わらなかった。
◇
午後十時四十一分。
直人は眠くなっていた。
椅子の背にもたれる。
向かいでは、若い女が腕を組んで目を閉じている。
眠ってはいないらしい。扉が開くたび薄く目を開けた。
ぱむちゃんが床を横切った。
「ぱむ」
誰に言ったのか分からない。
直人は時計を見る。
残り一時間十一分。
あと一時間で外が安全になる保証はない。
むしろ悪くなっているかもしれない。
それでも、まだ延長しなかった。
今決めなくていい。
そのことだけが、少し楽だった。
◇
午後十一時三十七分。
美咲から来た。
《まだそこにいて》
直人はすぐ返した。
《いる》
終了まで十五分。
レジへ行く。
「延長、今できますか」
「はい」
また四時間。
そう言いかけて、直人は止まった。
今回の四時間が終わる前に、もう次を決めようとしている。
「……やっぱり、あと十分待ちます」
「承知しました」
引き止められない。
急かされない。
直人は席へ戻る。
十一時四十八分。
外で何かが倒れる音がした。
店内の何人かが窓を見る。
厨房では、注文番号が呼ばれた。
「二十三番のお客様」
誰かが立ち上がる。
直人は自分の紙を見る。
23:52。
四分。
四時間という数字が、急に短く見えた。
ここに朝までいられるとは、誰も言っていない。
けれど、四時間後にもう一度決められる。
それなら今は、それでよかった。
午後十一時五十一分。
直人は立った。
レジへ向かう。
「延長、お願いします」
「四時間ですね」
「はい」
新しい紙が出てくる。
今度の終了時刻は、午前三時五十一分。
直人はその数字を見た。
午前三時。
そんな時間のPANDEMONIUMを、まだ見たことがなかった。
足元で、ぱむちゃんが紙を覗き込む。
「ぱむ」
直人は紙を折らず、テーブルの上へ置いた。
外へ出ないことを決めたのではない。
次に決める時刻を、四時間だけ先へ送った。




